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私が好きな音楽のことを綴るブログ

宮本浩次が私にくれた楽しみ…②『永井荷風』編

永井荷風編その②

この前の記事に宮本浩次『花火』が好きなのかどうかについて記した。

実際のところどこまで本心かなんてわからない。

それに実はそんなことは案外どうでもよいことです。ただ、『花火』について何か興味をそそるものは無いものかと…私はおもむろに“森安理文”という方の著された「永井荷風-ひかげの文学-」という本をめくってみました。

 

永井荷風―ひかげの文学

永井荷風―ひかげの文学

 

 

永井荷風は小説に「濹東奇譚」「すみだ川」など下町をテーマに書いている。なので、すこし「花火」にも触れているのではないか?と、思ったからです。

そうしたところ触れるというよりは『花火』という題名の小文を残していました。しかし、この小文は江戸の打ち上げ花火を題材にしたものではない。

第一次世界大戦講和記念祭”に打ち上げられていた花火のことのようです。梅雨明けしてしばらくした季節の日中のことらしいので、夜みる華やかな花火とは違うと思います。第一次世界大戦講和(ヴェルサイユ条約)が調印されたのが6月28日らしいので、この前後なのでしょう。

私はこの『花火』を今さっき知り、片手間に検索をかけざっくりとした情報のみを拾った。なのでこのブログ記事は非常に浅い内容になってしまう事をお許しください。

  

花火,雨繍繍 他二篇 (岩波文庫 緑 41-3)

花火,雨繍繍 他二篇 (岩波文庫 緑 41-3)

 

 

荷風はこの花火の音を聴きながら開戦した頃のことに思いを馳せつつ、これまで文学者として“国”や“政治”について言論で一石を投じられなかったことに、ある種の劣等感を抱いていたようです。

「花火」に関して解説された内容を読むと、荷風は小説家ゾラや詩人ビクトル・ユゴーのように、政治や社会に正義を訴えられる文学者でない事を恥じ、自問自答しながら自らを断じている…そんな内容だとありました。

私は電子文芸館に記載のあった「花火」を読んだ。

荷風は“第一次世界大戦講和記念日”の花火の音を聞きながら、住まいの傷んだ壁を修繕し世間との“壁”を痛烈に感じていた。そして、自分が幼い頃に慣れ親しんだ「祭」とこの日の「祭」には大きく違う意味があり、明治になって西洋の文化や思想が入って来てから、「祭」の扱われ方に政治的な策略も込められていることがわかっていて、そのことに嫌悪しながらも声もあげられず、静かに忍び寄る不穏な時代を予感しながらも、漫然と日々を過ごす自分への憂いを感じていたようです。

 

音楽を通して“反戦”や“反核”、“反政府”を訴えてきたミュージシャンもいますが、そういう点においてはエレファントカシマシの楽曲をほぼ手掛けている、宮本浩次はどちらかと言えばそういう事を作品に反映させているタイプではない。

作家、永井荷風のようである。

最近発売されたエレファントカシマシの軌跡本「俺たちの明日」上巻にチラッと出ていました。

「争い事が嫌い」「闘う対照がわからない」と…そりゃそうなんですよね。平和の国日本ですから。日本の今を見ただけだとその戦う歌とか作りにくい。例えば世界に目を向けたとしても当事者でないから、全てがニュアンスであって説得力もないだろうし、虚しさしかでないだろうな…とは、思う。

ただ、今見てる現状をスケッチして言葉に起こした時、ミュージシャンにできることってもっと広がるよね。大事なものも見えてくるだろうし。

佐野元春が新譜「MANIJU」は今目の前にある現状をスケッチするように描いたと言ってた。そうして聴いた時になるほど…世界におきていること、起こりつつある懸念、心の準備、私にとって本当に守るべきものということが見えてくる。

「花火」を発表後、永井荷風が自分の作家としての役割をどう立てたのか?は、わからないけれども、断腸亭日乗は大正~昭和の日本(東京)の風景・風土などを詳細に伝える資料としても研究されるほど、貴重とも言われている。だからやはり目で見えてるものをスケッチして残された作品は間違いがない。失われたもの守るべきものが解るのだろう。

宮本浩次が歌う「今」…新曲『今を歌え』はどのような作品なのだろう?今まで以上にもっともっと、宮本の目に映る今の風景、心情を歌ってほしい。

 

RESTART/今を歌え(初回限定盤)(DVD付)

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