【東京の空②】高輪・泉岳寺
2008年12月17日の日記
私の旦那は『忠臣蔵』が大好きで、暮れも押し迫る頃のテレビ番組欄に忠臣蔵、赤穂浪士、大石内蔵助などのワードをみかけると、熱く語りだし耳にタコができるほど聞かされてきました(笑)。なので、四十七士の眠る泉岳寺は知っていたし少し興味がありました。
私の住む街は四十七士やその縁の人達にとっては仇となる、吉良上野介の屋敷つまり討ち入りのあった吉良邸があった街です。なので、泉岳寺には興味が大きかったといえば大きかったのです。
宮本浩次(エレファントカシマシ)『東京の空』の特別編の中に、この“泉岳寺”も紹介されています。
中門を入ると右側にお土産物屋さんがあるのですが、その前で撮った写真なんかもあります。
そして、ミヤジの母校(高校)がこの泉岳寺の隣りにあります。
本には“12月の討ち入りの頃になるとお線香の匂いが漂うのだけど、期末テストなんかの頃で…”そんなエピソードを絡めて、高校時代の話しが綴られています。
旧暦の12月14日が赤穂浪士討ち入りの日で、その3日後に泉岳寺へ訪れた時の日記です。
今日は冷たい雨が降る中、 “赤穂四十七士”の眠る「泉岳寺」に行って参りました。
▲泉岳寺山門去る、12月14日(赤穂浪士討ち入りの日)*1は、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭が・吉良上野介に切りつけた、松の廊下事件に端をはし、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしという結果に、不服とする大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)が本所・吉良邸へ討ち入った日です。
吉良邸から引き揚げた浪士は浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺に向かい、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。
その後の浪士たちは切腹をし、その亡骸がここ「泉岳寺」の 墓所に葬られています。
▲赤穂四十七義士墓所入口
たぶんこの土日は、四十七士をお参りする観光客も多かった事でしょう。
この雨の中、私も訪れた一人でありますが、雨の泉岳寺は香を焚く匂いが立ち込め、数人の人が訪れて手を合わせていました。
墓碑をみますと、20代・30代・40代・・・若い人が多く、大石内蔵助の息子、主税(ちから)にいたっては若干16歳で切腹です。
昔で言う16歳と言えば、元服(成人)・・・15歳で成人として扱われていたから、討ち入りに参加し沙汰も受けるというのは当たり前の時代でした。「赤穂浪士」「忠臣蔵」の話は、忠義に厚い家臣の美談として知られていますが、歌舞伎の演目として創作された部分も多いらしい。
私の住む町は赤穂の義士たちにとっては敵となる「吉良上野介」が暮らした町(吉良邸跡)が近い。
後日、そこも訪れてみようと思う。この辺では、吉良上野介は良い殿様で知られているらしい。さて、前置きが長くなりましたがここ泉岳寺は宮本浩次の母校にとても近く、実はそんな事とは知らずに、数年前に来た事があります。長男が小学6年の頃に受けた外部テスト(模擬試験)の会場だったので、何回か通ったことが・・・。
『忠臣蔵』というのはあくまで歌舞伎や人形浄瑠璃の演目名であって、史実上では『赤穂事件』というらしいです。
この赤穂事件に脚色がされているのが、一般に知られている『忠臣蔵』なのですね。暮れになると多チャンネルのどこかで関連している映画やドラマなどが放送されるので、旦那は飽きもせず時間が合えば観る。
そして、義士達の忠義や江戸の町の人情の場面になると泣きながら観ている。これまでに大石内蔵助を演じた役者の人は沢山おりますが、
松本幸四郎(現、二代目松本白鸚)、市川染五郎(現、十代目松本幸四郎)親子が大石内蔵助、大石主税の親子を演じた作品が私の中で印象がとても強い。
その二代目松本白鸚の弟、中村吉右衛門の演じた大石内蔵助もなかなか好きです。
*1:元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)