また、あした…

私が好きな音楽のことを綴るブログ

「獣ゆく細道」の私的考察


椎名林檎と宮本浩次-獣ゆく細道

早寝してる間にこんなことに!(笑)※10月2日の朝

林檎ワールドではあるけど世界観は二人のイメージにぴったりあってるねぇ♪さすが!カッコいいです。宮本の仕事にも刺激になっただろうな。

 

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sp.universal-music.co.jp

楽曲の歌詞については、椎名林檎さんが新曲リリースにあたってコンセプトを表明しているので、それ以上でもそれ以下でもない。

つまり、宮本浩次のこれまで発信してきたメッセージを要約して、番組のエンディングテーマに相応しいものを作るといった感じなのでしょう。

www.universal-music.co.jp

 

このことを前置きしつつ、その要約されている内容について掘り下げてみたいじゃないですか?

「獣ゆく細道」の歌詞について非常にわかりやすく考察、解釈されていたサイトがありましたので、ご紹介しておきます!

▶椎名林檎と宮本浩次「獣ゆく細道」歌詞の意味(解釈)とは? – Brilliant Magical Box

すごく正当に考察された解釈です。こういうことを歌っているんだと納得できます。それを踏まえて…。更に

 

それとは別にTwitterで流れてきた赤ペン入りの解説を見た時、私と同じ解釈されてるのかな?って思ったので…裏面的に感じたことをつらつらと…。

この歌詞は椎名林檎さんの宮本へのリスペクトを越えた…告白も施された内容だと思いました。細道ってのは女性の…で、獣はすなわち男性の…という意味にも受け取れた。

椎名林檎さんに関しては浮名を流したこともある女性ですし、今までも艶めかしさを含んだ作品もありました。私も女だから直感的にそう感じた部分は常にあったのですが、この方は天才だから自分の想いを隠しつつ、詩にして自分の想いをその想い人に歌わせる…そのくらいの事しそうな気はします。

何故そう感じたか…?

椎名さんも最近の宮本浩次の作品を聴いていて、薄々感じていたのではないか?宮本の表現力が枯渇していると。

事務所やレコード会社への気遣いやフロントマンを兼任している多忙さ、神経質になって自らの本能・本性が押さえつけられて身動き取れなくなって、表現自体に影響してはいないかと…。

例えば色恋だって芸の肥やし…浮名でも流せば少しは道が開けやしないか?みたいな。まぁ、この解釈はかなり度が過ぎていますが、林檎さんの肝の据わった、怖いものなしの度胸が垣間見える感じが私には受けたのです。

だから、難解なこの歌詞をあの早いテンポの曲で歌い。妖しい映像にのせちゃったら、単にカッコイイ…ミヤジのファンも誤魔化せるだろう的な巧妙さヤバさ…も、感じました。

宮本がいかにも使いそうな言葉を用い、世の中の人を揶揄しているけど、ここ数年の宮本浩次の姿を示しているようにも読めた。

ご自分の楽曲なのに林檎さん自身はそこまで出張らず…しっかり宮本を立てている。ゼロのエンディングでは林檎さんのパートをクローズアップしているけど、全編では「歌っていただいている(私の想いを)」が、伝わる(そうかどうかは別として私にはそう伝わったという意味)。こんな林檎さんの策士っぽいところ…私は嫌いじゃない(笑)

林檎さん、世界屈指の宮本浩次を世界に押し上げようとしている感がしますね…。もともと、林檎さんは宮本の事を尊敬していたけれども、今となっては世界の檜舞台へ誘う女神な感じすらする。彼女が女神なのか…とか思ってしまった。

もっと言えば

「ここにくるまで私、有名になってそれなりの力も得て待っておりました。ご一緒出来て嬉しゅうございます。私は目立たなくても良いのです。あなたのための曲ですもの。」

とか、妄想が広がる(笑)

ミヤジが作った「歴史」が森鴎外の事を歌ったのと同様に、この曲は宮本浩次の事を歌った曲ではないかと最終的には感じました。

沢山のことを背負い込んで、自分の生きたいように行けているのか?

今度こそは失敗できない…でも、何ができるのか?これは自分のやりたい事なのかそうでないのかは二の次。

とにかくここで終わるわけにはいかない。いい加減いい大人…キレイごと(御為倒し)並べて、知っているのに知らぬふり(かまとと)していけばいいのか?

そうこうしているうちに、正しいのか間違っているのかいつも迷い悩みは尽きなくなった。それでも周りの意見も尊重し、周りの要求にも応え足並み揃えてやってきました。

好きなこと(音楽)をして生活しているのに、今や好きというよりは生きていくための手段。本当にやりたいことなのかなんてわからなくなっている。

かつて言われた逆をやっていた自分。なのに今は自分の考え通りに生きているわけではない。そんなのは本当は厭なのに。

それでもこの先は*1着膨れのおろかなる影曳くを恥づ」にならぬよう。

策や方法はひとまず投げ捨て、この命の尽きる(こと切れる)場所が見えるまで、ただガムシャラにこの細き道を広げて進んで行くしかない。己の道を・・・。

もう一度、生まれ持った己自身の本能を信じて…再び走り出す。

私なりの解釈はこんな感じでしょうか…。 あくまで個人的な解釈です(笑)

林檎さんのイメージする宮本浩次を呼び戻すかのように、本人に自問自答させているそんなシチュエーションではないだろうか?

鏡に映る自分に向かって問いかける。自分の心を鑑みる…そういう画に映りました。

 

獣=宮本浩次

細道=椎名林檎

MVで林檎さんがミヤジにささやくようなシーンがあるけど、

「だってそうでしょ?あなた…」とでも諭すようにも見えませんか?

蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)、林檎さんの通った道を宮本が行くような…。

「だって、あなたと私は同じなのだから…箍を外して私と同じ道を行きましょう…」とでも誘っているようにも見えます。

 

それにしても、魅力的なアーティストと仕事しても影響されてくるだけじゃダメなので、その上いく仕事を成し遂げてほしいもんだなぁ...と、今はそんな気持ちです。

手ぶらでエレファントカシマシに戻ってくるなよ!って思います(笑)

 

 

  

獣ゆく細道

獣ゆく細道

 

 

東京スカパラダイスオーケストラ feat.宮本浩次

エレファントカシマシとしてのニュースではなく、宮本浩次のおもわぬところからのビックニュース。

 

先手は

東京スカパラダイスオーケストラサイドから、ゲストボーカリスト宮本浩次を迎えた新曲「明日以外すべて燃やせ feat.宮本浩次(11月28日水曜日発売)と、いうニュースがリリースされました!

9月29日(土)にエレカシメンバー三人の出身地、北区では花火大会が催され今年はエレファントカシマシの楽曲とコラボさせた打ち上げ花火があるというので、ファンの間ではその心意気に心躍らせていた。

本人たちが何かの形で出番があるのかと言ったら、そういう事はないと事前にわかっていたにも関わらず、生憎の天候の中でも多くのエレカシファンが打ち上げ会場となった、岩淵水門の堤防へと参集していました。

 

「桜の花舞い上がる道を」

「今宵の月のように」

 グランドフィナーレで「俺たちの明日」

 

現地で盛り上がった人、スマホアプリから中継で楽しんだ人(私はこっち)、ほのぼのとした空気の中に突然舞い込んだ情報。

東京スカパラダイスオーケストラはこの日が彼らのツアー初日。そのMCの中でこの新曲とゲストボーカリストの発表されたようです。

同日の夜半、TwitterInstagramではスカパラ谷中敦さんが興奮気味にこのニュースをポストしていて、情報に敏感なSNSユーザーに瞬く間に拡散され夜のお祭り騒ぎとなりました。

「ミヤジがスカぁぁぁぁ?!?!」

www.tokyoska.net

さて、安室奈美恵さんが引退した次の日の花火大会にお忍びで観に行っていた…という話題から、この北区の花火大会をエレカシメンバーも密かにどこかでみているかも…そんな期待をしていた一人が私です(笑)

しかし、この期待を期待通り裏切った宮本浩次。彼は東京スカパラダイスのツアー初日公演の川口会場へ出向いておりました。このシングル発売の告知があるので招待を受けていたのでしょうね。

人情的には北区の人達の心意気に華を添えてほしい気持ちでしたが、北区の人達はエレカシの活躍人気で地元が元気になったことに感謝しているから、既にエレカシがこの花火大会に貢献したことなので良しということですね。

兎にも角にもこのスカパラ参加が…どういう相乗効果を出しているのか?単に楽曲参加したということではなくて、ミヤジにも良いインスピレーション与えたでしょうし、満を持して(長年の夢と表していました)オファーしたスカパラサイドの皆さんも更に意気込みが湧いたでしょうし。いいことづくめのセッションだったのではないでしょうかねぇ。

歌録りはすでに終わってるとの事。まだ、その一端すら聴いてませんが…どんな宮本浩次が聴けるのか楽しみです。

さて、楽曲タイトルにも入っている「feat」…私は目にすることがなくて、今回どんな意味があるのか?って調べてみました。

詳しくは→「feat」

 

そして、冒頭で“先手は”と書きました通り、驚きのニュースはこれだけでは済みませんでした。更なる衝撃が…この後に…(笑)

 

www.tokyoska.net

【宮本三十三景其の⑦】「清水門」

 
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2012年11月19日 10:31の日記

皇居の中の“門”と言ってパッと思いつくのは・・・『桜田門』とか『大手門』とか・・・

コンサートで武道館へ訪れたことのある人なら、『田安門』とか思い浮かべるかもしれないですね。

赤本「明日に向かって歩け」で宮本が紹介しているのは、そう言ったメジャーな門ではありませんでした。

それは、『清水門』【国指定重要文化財という門。宮本がどういうわけでこの門に巡りついたのかはのちほど…。

寛永元年(1624)助役大名,浅野長晟により建てられた城門とのこと。

千代田区観光協会のHPによりますと…

寛永元年(1624)助役大名,浅野長晟により建てられた枡形の城門。扉釣具の銘には万治元年(1658)とあるが,これは江戸城の総曲輪の大工事を行ったついでにこの門を修復した年であると考えられています。
 門名については,昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれています。
 宝暦9年(1759)九代将軍家重の第二子重好をして,この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と称しました。文久3年(1863)の本丸炎上の時には、将軍家茂と夫人親子(静寛院宮)は一時ここに移っていたといわれています。

 

なるほど、清水門へ向かう右手の濠は蓮池っぽくなっていて、清水が湧いていたのかも・・・と、思わせる雰囲気でした。濠の向こうには武道館の屋根が見えました。

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門をくぐると宮本が言うように雑草なども結構生い茂っていて、あまり手が加えられてうないところがあり、“ひっそりとした趣”という感じでしたが、わりと人の行き来が自由なせいか、庶民に親しまれている散歩道への【門】そんなふうにも感じられました。

と、いうのも門をぬけて上の方に上がっていくと、『科学技術館』などもあってそこへ訪れる人や職員なども利用しているかもしれません。

 

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以下、2018年9月30日追記

読んでお分かりの通り、宮本は神保町へ行ったその道すがらこの清水門へ訪れていたようですね。冒頭のマップをみてもお判りになりますが、神保町へ行ってそのあとブラブラ歩いてこの清水門に立ち寄り、武道館へ向かうのも良いかもしれません。

清水門へは3回位訪れました。皇居周辺を散歩した時、神保町へ行ったついでの時、エレ友さんを案内し連れて行った時。

最後に訪れてからかれこれ4年は経っていますので、今はどんなふうになっているだろう…。また、日本武道館へ行く機会があったら神保町から行くコースで訪れてみたいと思います。

 

 

 

 

 

【宮本三十三景其の⑥】「二重橋」

 

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2012年11月24日 13:12の日記

久しぶりに 手をひいて
親子で歩ける うれしさに
小さい頃が 浮かんできますよ
おっ母さん ここがここが二重橋
記念の写真を とりましょうね
やさしかった 兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれがあれが九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも
さあさ着いた 着きました
達者で永生き するように
お参りしましょよ 観音様です
おっ母さん ここがここが浅草よ
お祭りみたいに にぎやかね

二重橋
両親のアルバムを見ても、祖父母や叔父叔母が上京してきた時の写真に必ず、二重橋靖国神社などのところで記念写真を撮っている。

冒頭の歌詞をご存知でしょうか?島倉千代子さんが歌う 『東京だよ、おっかさん』です。昭和32年(1957)4月、コロムビアからレコードが発売されました。

この曲がヒットした頃、私はまだ生まれていないけど二重橋と聞いてまず、この歌が浮かぶのです。

思い浮かんでしまったので、『東京だよ、おっかさん』をググってみたら、この曲は1〜3番まであるのに、国営放送などでは2番は歌われないそうです(今もそうなのかは不明ですが)。

歌詞から靖国神社へ行くと戦死した兄を思い出しますね。といった内容だと読んでとれます。『靖国』に関連するものは避けざるを得ない感じなのでしょう。

そして、 二重橋についてもいろいろ調べている中、この二重橋の右手奥手に「伏見櫓」がありますが、かつてはこの櫓が天皇を「遥拝」する対象となっていたという。終戦を告げる昭和天皇の言葉を聞いて、この二重橋広場に多くの国民が訪れ涙するシーンを記録映像でよく見ますが、単純に皇居に天皇がいるから・・・ということではなく、この伏見櫓に向かってだったのかもしれない。

曲が発売された昭和32年って戦後12年で、まだまだ戦争の傷跡も色濃く残っていたのでしょうし、老いた親を単純に東京見物に連れて行く子の姿・・・ではないのですね。でも、3番で浅草寺に行って長寿を祈る子の思いが歌われていて、明るい気持ちにしてくれます。

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二重橋』って私が撮影したこの写真がよく紹介されていて、二重のアーチ型の橋だからそう呼ばれていると思われてる人も多いのではないかな? 私もはじめはそう思っていました。

実はこのアーチ状の橋の向こうにもう一つ橋があって、手前の橋は石で造られた「正門石橋」で、その奥に鉄で作られた「正門鉄橋」という2つの橋があります。

二重橋」とは本来は奥にある正門鉄橋の呼称であるそうです。

Wikipediaより》

奥の鉄橋は、江戸城の西丸下乗橋のあった位置で、木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていた。そこから、「二重橋」と呼ばれるようになった。

現在の鉄橋は昭和39年(1964年)に架け替えられたもので、橋桁は二重ではない。手前の石橋は江戸城の西丸大手橋があった位置で、現在の石橋は明治20年(1887年)の建造である。二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋である」との誤認が多い。 さらに「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって架かる橋だから二重橋」というのは正確な解釈ではない。

詳細は「二重橋 - Wikipedia」

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 と、いうことらしいのです。

以下、オマケ記事。赤本の中で宮本浩次が紹介している皇居周辺の散歩コースです。

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【宮本三十三景其の⑲】「精養軒」

 

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2012年08月29日 12:56の日記

1872年(明治5年)築地にて創業。
明治9年上野公園開設に伴い、不忍池畔に移転*1「上野精養軒」が誕生しました。

王侯貴族や政財界人に親しまれてきた「精養軒」。明治を代表するの文豪、夏目漱石太宰治森鴎外たちからも親しまれていたようです。

森鴎外の『雁』という小説の中に出てくる青年が、この精養軒で食事をするというシーンがあって、宮本はそれでこの精養軒に興味を持ったのです。

ただ、他の日記でも紹介しましたが彼や私が幼い頃にテレビでこの精養軒のCMがよく流れていたので、親しみは大きかったかもしれません。


懐かしい CM 上野精養軒

 

宮本は上野へ散歩に来るとこの精養軒で「ハヤシライス」を食したり「コーヒー」で一服していたようです。そこで、その小説に出てくる青年や当時の歴史に思いを馳せていたらしい。

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2012年8月8日撮影

私もその「ハヤシライス」を食べました。シンプルだけど手を抜いていない老舗の味。

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そんな印象のハヤシライスで、とても美味しかったです。

レストランからは不忍池が一望できるテラス席もあります。長い歴史の中で沢山の貴族や政界人、文化人に愛された景色。それだけでもご馳走だなぁ・・・と、感じました。

 

以下、オマケ追記(2018年9月26日)

「明日に向かって歩け」通称:赤本の宮本をめぐる東京・武蔵野三十三景を中心に記事を載せておりますが、10年以上前にネット配信エンターテイメントの番組取材でいくつか被っている場所があります。

その中に上野界隈の場所が出てきますがこの「精養軒」についても語られていました。

当時(2002年頃)もまだ、散歩がてら訪れていた様子でその頃は食券を買うシステムだったようです。

“精養軒の「精養」は音から「西洋」からきてますよね。”

と、話したり「建物もいたって普通な感じだけど…」と、インタビュアーが話をふると“伝統”という部分で、はじめて本格的な西洋料理を出した店として、その伝統という部分に惹かれた。とか話してます。

築地に創業された当時の建物はこんな感じ※精養軒の写真

「天気の良い日なんかは、テラスで珈琲なんか飲むといいですよぉ」

 と、いうので私も精養軒のテラス席で食事を2度ほどしたことがあります。テラス席から見た景色はこんな感じであります。

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先月(8/16)も不忍池の蓮を見に上野へ行き、お昼は精養軒で食事しましたが、風が強かったので屋内の席でカレーライスをいただきました。

 

 

【宮本三十三景其の⑱】「上野大仏」

 

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2012年08月22日 12:11の日記

寛永8年 越後村上藩主、堀直寄氏が建立したという。

”大仏を 埋めて白し 花の雲” 
          正岡子規


もともとは漆喰造りの大仏で、東大寺の大仏のように『大仏殿』に収められていたらしいのですが、正保の大地震により大仏殿や大仏自体が倒壊し、*1金銅像で再建立されたようです。

 

しかし、その後も度々おきた震災で破損しその都度、修復、寄進等が行われてきましたが、明治8年、上野公園の整備にともない大仏殿は撤去。大正12年の関東大震災の時には頭部が落下し、大仏は解体され長いあいだ寛永寺が保管していました。

第二次世界大戦の時は、寺院仏閣の鐘などが爆弾などの武器の原料に使用されるために回収されたように、この解体された大仏の胴体などは軍部に回収されてしまいました。

こんな数奇というか不遇な歴史のある上野の大仏が、再び人々の目の前に現れたのは、昭和42年、関東大震災の50回忌にあたり上野の観光協会の働きによって、“パコダ”を建立し昭和47年には寛永寺に保管されていた、大仏の顔の部分がレリーフとして安置されることになったのが現在の「上野大仏」です。

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写真撮影:2012年8月8日

上野精養軒に隣接してる丘の麓に【大仏山】という看板が立ててあって、そこを登るとパコダが見えてきます。

祈願用の“絵馬”が販売されている小さな売店があるのですが、“これ以上は落ない”という験担ぎの意味で【合格祈願】に来る人が多くなったようです。

 

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赤本によれば宮本は「大仏が好き」ということです(笑)
私は大仏が・・・というよりは、仏像全般が好きかな(笑)

単純に美術品として美しいですからね。そういえば・・・私の母方の祖父も仏像や菩薩像が好きで、祖父の部屋の床の間に何体か飾られていたなぁ。仏像の本(美術本)もあったし・・・あの本はもう捨てられてしまったのかしら・・・?それからおじいちゃんは骨董好きな人でした!私の中にはおじいちゃんの血が濃く流れているのだな!

私はおじいちゃんを“男性”を見るときの基準にしていた気がします。結婚するならおじいちゃんのような人!と、思っていたものなぁ。まぁ、実際は仏像好きでも骨董好きでもない人と結婚しましたが(笑)それはそれで正解だったのかもww

ただ、宮本浩次を好きになったのは趣味がおじいちゃんに似ているから、こうして何やら憧れの人に出会えた的なトキメキがあるのかもしれません。

 

以下、追記

2011年~2012年は日記にあげなかったものも含め、上野への散歩が一番多い時期だったみたい。

2011年3月の東日本大震災からエレ友さん達との関わりが少しギクシャクし始めて、10月はエレカシの活動休止があった年だったり…心の整理をするために散歩を無理矢理していたような気がします。その場所が上野界隈だったという感じ。

「上野大仏」も最初は自分で出向き、エレ友さんに行ったことがないと聞けば案内したり…何度もいきました。これからもそんな機会があるかもしれません。

 

 

 

 

【宮本三十三景其の⑰】「国立西洋美術館」

 

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 2012年08月19日 16:52の日記

今の私は描くことを忘れてしまったけど、幼児から10代の頃は絵を書く事が大好きでした。

子育ての手も離れ、描くことにはなかなか気持ちが動かないけれども、美術鑑賞はできるだけしたいなぁって思うようになりました。

そこで!ここへは気になる展示会があると訪れています!

しかし、宮本浩次が美術の分野にどれほど関心があるのかはわかりませんが、この美術館を設計した建物には、どうやら深い関心を抱いたようであります。

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建築設計者として*1ル・コルビュジエ氏(1887−1965)を起用し着工。昭和34年5月に設立しました。

宮本はこの設計士、ル・コルビュジエ氏のどこに魅力を感じたのか? 後に彼が設計した建物を観にフランスまで取材旅行に赴いています。

どうして建築家に興味をもったのか?

私の憶測でございますが・・・江戸から東京、第二次世界大戦後から現在の東京の街並みを象徴する“外来的”な建物への興味に端を発したのだと思うのです。

コルビュジエ氏だけではなく、それらに関わる建築家の歴史を掘り下げていくうちに、建築家の生き様への憧れからなんとなく・・・ 徒歩から自動車へ、火鉢に座布団から椅子へ・・・宮本なりの開国・・・鎖国からの開放につながったのかしら?などと思ったりしたのでした。

どうやら、このコルビュジエ氏との出会いはその“椅子”にあったようですね。宮本が椅子での生活を始める時に購入した椅子のデザイナーが、コルビュジエ氏だった。

コルビュジエ氏の設計した日本の建物は、この西洋美術館(本館)のみということですし・・・。それで、わざわざフランスまで行ってしまうのがすごいなぁ(笑)

さてさて、私はこの建物も所謂、一種の現代芸術の一つと考えておりますが、この美術館で開催される特別展などにも興味があります。

若い頃は常設されてる所蔵作品しか、見に来たことがありませんでしたけどね。

この国立西洋美術館の所蔵作品は、松方幸次郎という日本の実業家、川崎造船所の社長がヨーロッパから買い付けた芸術品(松方コレクション)370点を中心に、現在では絵画、彫刻、素描、版画、工芸など、およそ4,500点の作品が所蔵されているようです。

日本の浮世絵が海外へ渡って行ったように、日本人の美術品収集家によってヨーロッパ芸術が集められ、このように立派な国立西洋美術館として誕生できたんですよね。


ちなみに美術館内のレストラン「水蓮」は入館料無しで利用できます♡

食事はもちろん美味しいのですけど、全面ガラス張りの向こうに見える中庭が素敵です。

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私は新緑の4月に利用しましたが・・・本当に!癒されますよ。

 

以下、オマケ日記。国立西洋美術館へ鑑賞に行った際の日記2編です。長いのでご興味のある方はご覧ください。

 

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