ほゞ、エレカシ漬

私が好きなエレファントカシマシの事を軸に音楽のことを綴るブログ

2008年12月10日:武蔵野の男 下総の女

最近は宮本浩次の事を“ミヤジ”と呼んだり、“宮本”呼ばわりすることが多くなってきたけど(笑)この頃はまだ、どう呼んでいいのか戸惑ってる時期ですね。

周りには彼を“先生”と呼ぶ人もいたりして、でも先生ではないな…と思っていて(笑)(私の方が2週間くらい年上だしねw)

宮本氏とかミヤジ氏とか… だったね。すぐに“氏”は取れてくるけどw

 

ミヤジ(宮本浩次)氏は、武蔵野に思い入れがとてもあるらしく歌にしてしまったほどです。

武蔵野/「good morning」 

good morning

good morning

 

 

 東京はかつて木々と川の地平線・・・

 武蔵野の坂の上 歩いた二人・・・

 

ミヤジの生まれ育った街、北区赤羽はそんな武蔵野台地にかかっている荒川に程近く、川向こうは埼玉県。
彼が暮らした団地は小高い丘になっていて、坂道があるようなところ。

まだ、エレファントカシマシをよく知らない頃に偶然に一度だけ、赤羽団地を訪れ歩いた事がある。
今思うと、訪れたのは日曜の午後だったのに静かなところだった。
たぶん、ミヤジが子供の頃にはもっとにぎやかで子供達の騒ぐ声が沢山聞こえただろうな・・・そんな事を思った。
高度経済成長の頃には、団地と言うものが夢の住まいで沢山の若い家族達が入居し、そこで子供を生み育てていたと想像できる。

ミヤジはそこで、恋もしていたのだろう・・・


私は下総国、千葉県との県境、江戸川区で育った。
ここは東京(23区内)でも本当に田舎の中の田舎だった。
私が暮らしていた頃は、田畑が沢山あってザリガニをとったり、空き地もいっぱいあって、野花で遊ぶ事もできた。
河川敷に生い茂る、ススキのような背丈の高い草をつかって秘密基地を作ったり(20世紀少年 -第1章- 終わりの始まりにも出てきたけど)、迷路のように、獣道を作ったりと野生児のように暮らした。


そんな、北区も江戸川区も今はすっかり人の住む街になり、昔の面影もなくなってきているだろう・・・。

江戸川区は更に如実に違いが出ている・・・何年か前に行った時、あまりの変わりように、正直唖然としたほど。
20代の頃、付き合っていた彼のアパートも、彼の通っていた銭湯もなくなり迎えに来てくれた地下鉄の駅も、駅ビルになりバスのロータリーまでできパチンコ屋、ファミレスまで・・・想像もつかない発展ぶりです。
淡い恋の思い出は、幻に・・・(そういえば、その彼は武蔵野国育ちだったな・・・)。

 
でも、たぶんあの河川敷だけはそんなに変わっていないと・・・ぜんぜん見に行っていないけれどもね。

読んでて気がついたのは、江戸川区が田舎町であった期間は長く、北区はすでに高度経済成長で人が暮らす街だったじゃんってこと💦江戸川区は私が結婚し離れてからも数年の間、田畑の残る様なところだったわ。

 

江戸川区、北区、共に戦時中に軍需工場がありました。北区の軍需工場の規模はかなり大きいものだったようですが…。私が今住んでる街にも多かったです。江戸川、荒川、隅田川周辺は空襲の被害も多く、戦後焼け野原なった地域ですね。

 

なぜそこに着目したかというと、2009年の夏に『康子十九歳 戦渦の日記』という本をもとに『康子のバラ ~19歳、戦渦の日記~』というドキュメンタリー番組が放送されて、私はその番組がきっかけで本を購入して読んでみました。

康子さんは東京女子師範学校の学生在籍していたが、北区の十条・王子にあった軍需工場で勤労動員として働いていた。本の冒頭にその場所が登場する。赤煉瓦で囲まれた要塞のような施設…。

エレカシがデビュー30周年で出した。『All TIME BEST ALBUM』のデラックス版に付いていた、期間限定特典映像の中で語っていました。

「まだ、カメラマンになる前の岡田くんが俺を撮りたいっつって、昔、軍需工場があった場所の塀の辺りで写真撮ったんだよ。」(デラックス版の写真集にはその写真もあります。)

この言葉を聞いてとっさいに思いだしたのが、この本の事でした。

ちょっと日記の内容とかけ離れてしまうようですけど、この本を思い出したついでに綴らせてもらいます。

この康子さんは工場の中で兵器部品をつくる部署に配属されるのですが、そこでコンビを組む男子勤労動員3人に自宅の庭に咲いた「赤い薔薇」を差し入れしたという記述がありました。雑然とした兵器工場に彼らは、康子さんが差し入れする庭の花を飾り作業に励んだという。

『康子のバラ』は確かこの場面の一回しか登場しませんが、このバラを受け取った工員のお一人が台湾からの留学生だった男性で、彼の記憶には深く残っていたようです。のちに康子さんに思いも寄せていました。

このくだりを読んで、エレカシ赤い薔薇を思い出したし、悲しみの果て「花を飾ってくれよこの部屋に」も思い出した。でも、康子さんは華やぐ街の赤い薔薇にはならず、彼女に思いを寄せたまま自国に帰国した、男子留学生の記憶の中の赤いバラになってしまいました。

私はこの話を関連づけるつもりはないのですが、連想させたエピソードとして記し残したいと思いました。

康子十九歳 戦渦の日記 (文春文庫) 機会がありましたらご一読ください。前半はエレカシの曲がBGMで脳内再生されることが多かったです。

康子さんのお父上は公人で戦争当時、広島市長をされていて原爆で亡くなったようです。康子さんは被爆し生き残ったお母様を看病するため広島に行き、二次被爆の末に20歳目前の19歳で亡くなったそうです。

花を飾ったその軍需工場の跡地がある北区で、青春時代を過ごしたエレカシのメンバー…悲しみの果てに素晴らしい日々を生きています。

 

 

エレファントカシマシ

エレファントカシマシとは編集