また、あした…

私が好きな音楽のことを綴るブログ

【宮本三十三景其の㉑】「森鴎外記念本郷図書館」から「森鴎外記念館」

宮本浩次が取材していた場所とはすでに変わっております。

 

 2013年01月17日 20:37の日記

森鴎外記念図書館』(現、文京区立本郷図書館)とは、森鴎外大正11年(1922)に没するまで、『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著した住居の跡地を鴎外の没後に明治の文豪たちが集うサロン“観潮楼(かんちょうろう)”となった場所です。住居に2階を増築し、その書斎から東京湾が遥かに見えたので、“観潮楼(かんちょうろう)”と名づけられたようです。

昭和37年鴎外ゆかりの資料などとともに、地域に親しまれた図書館となりました。(※冒頭の赤本掲載の宮本の写真)

そして、平成18年4月、観潮楼から徒歩3分ほどの現在の地に、鷗外記念室と分離して図書館のみを移転しました。これが現在の本郷図書館です。

本郷台地の東端に位置し、閑静な住宅街の一角にある新しい図書館です。

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そして、森鴎外記念館は観潮楼の跡地にあった鴎外記念分室を改築し、平成24年11月に『森鴎外記念館』として、新しく開館しました。

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以下追記

森鴎外記念館へは2度ほど行きました。

一度目は2015年11月。この時は[特別展「ドクトル・リンタロウ―医学者としての鴎外」] が開催されていました。

その時の感想…

今の世相を揶揄するような鴎外の言葉もちりばめられ、鴎外の発した口語文が宮本の作品に影響を与えたという証が見えました。

今回は軍医、医師、森林太郎の姿に光を当てているので、ちと難解な部分もありますが鴎外の二つの顔を垣間見ることができる、そんな展示会となってる気がします。

 あと一回…エレ友さんと行ったんだけど…日記にしていないなぁ。んむ💦

【宮本三十三景其の㉘】「六義園」


goo.gl

 2012年11月某日、文京区界隈の散歩にて・・・

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六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉側用人柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園です。

三代将軍家光の時に参勤交代が制度化され、各地方の大名たちが江戸で暮らすための土地が与えられて、そこに屋敷を建てたわけです。ただ、こうした屋敷には「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」などと呼ばれていて、江戸城に一番近い地域に建った屋敷は「上屋敷」少し離れた場所が「中屋敷」、そして『下屋敷』とは江戸城から最も離れた場所となるわけですが、主に上屋敷に住む上流階級大名の別邸だった、とも言われています。

それを踏まえて・・・この『六義園』は元々は平地であったようです。土を盛って丘を造り、千川上水を引いて池を掘りました(回遊式築山泉水庭園)。大きな池を中心として周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などを使用し、自分の国の風景を再現したデザインになっていることが多いようです。 この頃の大名達は競って庭園を造ったようです。その御蔭か、江戸の大造園技術は発達し、江戸時代に日本庭園築造技術が頂点をなしたとされているそうです。

『六義』の意味は、「詩経」における詩の六種の分類。“内容上の分類”にあたる風・雅・頌(しょう)と、“表現上の分類”にあたる賦(ふ)・比・興(きょう)。これらを用いて紀貫之が書いた古今和歌集の歌から用いてつけたようです。

昔は六義園のあるこのあたりは“へんぴ”な場所であったのでしょうが、それでも今では都会の中にあるわけです。しかし、一歩中に入ると別世界です。限られた広さの中に池、山、森があってかつてはここで大名たちが休息したり、宴を催し賑やかに歌や舞を行っていた場所・・・そう思うと、古の優雅な気持ちを感じ取ることができる、そんな不思議な空間です。

東京にはこうした庭園がいくつかあります。

などなど・・・

《都内の日本庭園》 まるで山道を歩いているように感じてしまいますが、小高い頂上の先に塀があって塀の向こう側は国道です(笑) 園内をぐるっと一回りし終わる頃に“茶屋”がありまして、そこで遅めの昼食「きつねうどん」を食べました。

おそらく・・・80代半ば?くらいだと思われる小柄のお婆さんが、チャキチャキと接客してました。若い頃はきっとモテただろうなぁ・・・そんな雰囲気を漂わせる綺麗なおばあちゃん。池にいる鯉や鴨にあげる“お麩”も売っていて、近所に住んでいるのか?小学生や幼児が小銭をもって買いにきたり、マイナスイオンやらまったりした空間で癒されました。 皆さんも機会があったら是非、足を運ばれてはいかがでしょうか?

  

 ▼参考資料▼

江戸城と大名屋敷を歩く (こだわり歴史散策)

江戸城と大名屋敷を歩く (こだわり歴史散策)

 

 

 

 

『今を歌え』…は、共通認識

お題「カメラ」

ミラーレスの一眼は持っているのですが、スマホの方が常に持ち歩いてるからふとした「今」を撮るのには便利です。

『今を歌え』でイメージした写真はこちら。2018年6月11日。

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エレファントカシマシ「今を歌え」

エレファントカシマシ 今を歌え 歌詞 - 歌ネット

 

ミヤジの誕生日前日。

この日は雨が本降りでしたが野暮用で役所に行った帰り道。ここは永井荷風の散策記“日和下駄”の中でも紹介されている、元水戸藩主のお殿様が住んでいた邸宅跡が公園になった場所。

幕末から第一次大戦関東大震災、第二次大戦を経て地元住人達の憩いの場となった。

荷風の散策記では公園になる前の整地された様子が書かれている。“どうやら日比谷公園のような洋式の公園になるようだ。”と…。

園内には日本庭園もありこのような小高い丘も作られている。植えられている木がほとんど桜の木なので、普段はこのような静寂さを漂わす園内も桜の時期は花見の人々で賑わう。この公園のみならず周辺は桜の名所であるのでそのことも紹介されています。

どんなに洋式な風貌に変わろうとも、古き良き日本の雰囲気を残す場所として書いています。この土地も何度も生まれ変わり人々に親しまれ、時代で変わりゆく景色を優しく見守ってきたのですね。

こじんまりとした好きな場所です。

人は皆、生きてきた年数だけ経験も積んで、子供のころの気持ちとか夢とかも変化していく。『今を歌え』ではそれを「生まれ変わり」と、表現しているんだけど、どう生まれ変わるのかっていうのは、人それぞれ生活環境や見たもの聞いたもの感じた事、出会った人、触れた芸術・文学・文化でもずいぶん変わる。何通りものパターンが用意されている。

これを前置きに…

私のファンレターを送る回数が減り、こうしてブログを書くことも数年前と比べたら減って、それでも時々本人に“読んでもらってるのでは?”と、錯覚するのにはちょっとした仕掛けがあったのかもしれません。

そう思ったのはどこかで見た「共通認識」という言葉から…

宮本浩次とは生年月日が2週間くらい違うだけで、育ってきた場所(東京)、受けてきた教育、見てきた文化(テレビ番組や音楽、本、漫画)や風景、それらが共通で4人家族で2DK育ちで…そんな共通することが多いから、その環境の中から生まれた『共通認識』の一部がそう思わせたのだと思い始めています。

それに冒頭で紹介した永井荷風のことはミヤジが教えてくれて、たまたま縁ある土地に住んでいることが興味のきっかけとなって、そこからたくさんのことを知ることが増えた…。好きな人の好きなことに興味をもって、影響されることで自分も変わっていくもの。なんだかとても自然なことなのかも?って思っています。

もちろん過去に知り合った初期からのエレ友さんが

「手紙は読んでくれているよ。宮本は手紙はもらうの嫌いじゃないよ」

と、教えてくれたことで思い込みは大きくなった(笑)たぶん、全てのファンから届いた手紙は読んでくれているとは思うけど、返事とも思える何かしらのアクションが、ライブMCやインタビュー等であると、つい勘違いに繋がっていたのかもしれない。そういうふうに今は冷静に考えるようになった。

“共通認識”であるならば、その価値観の類似の方が納得もできます。「あぁ、同じこと思っていたんだなぁ」っていう感じにね。

例えば去年の暮、私は「エレファントカシマシ“友達”と、思っていいんじゃないかな?」って記しました。その後のミヤジのインタビュー記事の内容とかから、それはミヤジと共通した認識だったとわかる。と、いう事です(笑)

私はいつでもエレファントカシマシのメンバーや宮本浩次と同じ今を生きてる。と、強く感じていて「今を歌え」そのものなのです。

 

あ、石くんだけは1年遅れですけど(笑)

 

 

RESTART/今を歌え(初回限定盤)(2CD+DVD付)

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【東京の空②】高輪・泉岳寺

2008年12月17日の日記

私の旦那は忠臣蔵が大好きで、暮れも押し迫る頃のテレビ番組欄に忠臣蔵赤穂浪士大石内蔵助などのワードをみかけると、熱く語りだし耳にタコができるほど聞かされてきました(笑)。なので、四十七士の眠る泉岳寺は知っていたし少し興味がありました。

私の住む街は四十七士やその縁の人達にとっては仇となる、吉良上野介の屋敷つまり討ち入りのあった吉良邸があった街です。なので、泉岳寺には興味が大きかったといえば大きかったのです。

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宮本浩次(エレファントカシマシ)『東京の空』の特別編の中に、この泉岳寺も紹介されています。

中門を入ると右側にお土産物屋さんがあるのですが、その前で撮った写真なんかもあります。

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そして、ミヤジの母校(高校)がこの泉岳寺の隣りにあります。

本には“12月の討ち入りの頃になるとお線香の匂いが漂うのだけど、期末テストなんかの頃で…”そんなエピソードを絡めて、高校時代の話しが綴られています。

旧暦の12月14日が赤穂浪士討ち入りの日で、その3日後に泉岳寺へ訪れた時の日記です。

 

今日は冷たい雨が降る中、 赤穂四十七士の眠る「泉岳寺」に行って参りました。 

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泉岳寺山門

去る、12月14日(赤穂浪士討ち入りの日)*1は、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭が・吉良上野介に切りつけた、松の廊下事件に端をはし、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしという結果に、不服とする大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)が本所・吉良邸へ討ち入った日です。

吉良邸から引き揚げた浪士は浅野内匠頭菩提寺である泉岳寺に向かい、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。
その後の浪士たちは切腹をし、その亡骸がここ「泉岳寺」の 墓所に葬られています。

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▲赤穂四十七義士墓所入口

 

たぶんこの土日は、四十七士をお参りする観光客も多かった事でしょう。

この雨の中、私も訪れた一人でありますが、雨の泉岳寺は香を焚く匂いが立ち込め、数人の人が訪れて手を合わせていました。

墓碑をみますと、20代・30代・40代・・・若い人が多く、大石内蔵助の息子、主税(ちから)にいたっては若干16歳で切腹です。
昔で言う16歳と言えば、元服(成人)・・・15歳で成人として扱われていたから、討ち入りに参加し沙汰も受けるというのは当たり前の時代でした。

赤穂浪士」「忠臣蔵」の話は、忠義に厚い家臣の美談として知られていますが、歌舞伎の演目として創作された部分も多いらしい。

私の住む町は赤穂の義士たちにとっては敵となる「吉良上野介」が暮らした町(吉良邸跡)が近い。
後日、そこも訪れてみようと思う。この辺では、吉良上野介は良い殿様で知られているらしい。

さて、前置きが長くなりましたがここ泉岳寺宮本浩次の母校にとても近く、実はそんな事とは知らずに、数年前に来た事があります。長男が小学6年の頃に受けた外部テスト(模擬試験)の会場だったので、何回か通ったことが・・・。

 

忠臣蔵』というのはあくまで歌舞伎や人形浄瑠璃の演目名であって、史実上では『赤穂事件』というらしいです。

  

この赤穂事件に脚色がされているのが、一般に知られている『忠臣蔵』なのですね。暮れになると多チャンネルのどこかで関連している映画やドラマなどが放送されるので、旦那は飽きもせず時間が合えば観る。

そして、義士達の忠義や江戸の町の人情の場面になると泣きながら観ている。これまでに大石内蔵助を演じた役者の人は沢山おりますが、

松本幸四郎(現、二代目松本白鸚)、市川染五郎(現、十代目松本幸四郎)親子が大石内蔵助大石主税の親子を演じた作品が私の中で印象がとても強い。

 

 その二代目松本白鸚の弟、中村吉右衛門の演じた大石内蔵助もなかなか好きです。

忠臣蔵 決断の時 DVD-BOX

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*1:元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)

2008年11月27日:宮本の路・・・上野東照宮

はじめてのゆかりの地巡りの日(2008年11月26日)、ジュンク堂の帰りにも一カ所立ち寄りました。上野東照宮です。東京育ちの私にとって上野は身近な憩いの場所であり、思い出も多い場所です。両親の実家に帰省する時も上野駅からだったし、動物園にもよく連れて来てもらったし。

ただ、知らない場所も多数…上野の知らない歴史も多かった。ジュンク堂の動画と同じ配信番組だったと思います。上野恩賜公園~その界隈を紹介するシリーズがあって、それを観ていたので立ち寄ってみたかったのです。

上野の東照宮に関しては存在は知っていたけど、来てみたことはなかったので…。

 

11月26日(ジュンク堂からの帰り)の続き…

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ファンの間では有名ですよね。
ミヤジが史跡巡りが好きと言うことは・・・
何かのインタビューで、日光と上野の東照宮について話していることがございました。

彼らの曲にも「上野の山」ってのが登場しますしね。

今はどうか知りませんが、宮本氏、上野のあたりは良く散策されたものと・・・

歌詞の中に出てくる「五重の塔」もアップさせていただきます。

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すっかり秋めいて、風情溢れるところでございました。
日が暮れてきていたので、人影もまばら落ち葉掃きをする高校生?ボランティアさん達がいたくらいでした。

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東照宮」と言えば、日光が有名ですが
これは
藤堂高虎(とうどう たかとら)」
(戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。)が、屋敷内に「徳川家康」を祀るために建てたのが、この上野の東照宮です。

 

この“上野東照宮のことがジュンク堂で購入した書籍、江戸城と大名屋敷を歩く (こだわり歴史散策) に、わかりやすく説明が出ていました。早速、お役立ちしました。

この日を境に春と夏にと何度か東照宮に来ています。なので、別の季節の東照宮も後々、ご紹介できると思います。

このあと江戸の成り立ちとかも色々知ることができたことに、有意義なきっかけを与えてくれたよなぁ…って、宮本浩次には感謝しきりです。

好きな人が興味があるからと言って、必ずしも影響されないのですが、私もこういうルーツをたどる…ということが好きだったし、住んでる者として興味をそそられないわけがないのです。

にわか仕込みではあるけれど、40過ぎで「何かを知る」きっかけを得ることは、とても嬉しいことでした。

エレファントカシマシ

エレファントカシマシとは編集

 

2008年11月26日:「宮本の路」略してミヤジと題する散歩 その1

mixiでのエレカシファン初期的な衝動アルアルですが、当時の活動中にやはり宮本浩次の足跡をたどってみる…登竜門ですかね?(笑)私もせっせとやっておりました。

今でいうと(前からそう言ってた?)≪聖地巡り≫…でも、私は今でもこの聖地巡りという言葉は使いたくなくて、使わない…。その代わりとして『宮本の路』という名前をつけて、足跡巡りの散歩をはじめました。

これはその記念すべき初めての縁の場所巡りの日記です。

 

今日はお仕事がお休みの日です。お休みの日は好きなところへ出かける!
そして、今日こそはあそこへ行くんだ!と、心に決めていました。
自問自答の末、結論した私の気持ちと同じように今日は見事な秋晴れ♪散歩日和でした。

さて、
「宮本の路」とは、エレファントカシマシ
宮本浩次(みやもとひろじ)さん、縁の地を訪れる散歩。
と、いった意味です(笑)

その1回目といたしまして、知る人ぞ知る
宮本氏のご用達書店、ジュンク堂書店へ今日は行って参りました。
もちろん、行くだけではなく本も買いましたよww。

 

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れは正面写真です。
さすがに店内は撮影する勇気が・・・
店内には宮本氏も利用したカフェがありまして、
テラス席で取材を受けていたことがありますが
そこで私も・・・と、思ったのですが
誰もテラスにはおらず、ちょっと躊躇しw
中でお茶しました・・・テラスの写メ・・・
撮れませんでした。 
また、行こうと思うのでその時は撮ってこよう!

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このベンチ何?とお思いでしょう。
これはジュンク堂1Fのレジ近くにあるベンチです。 

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※当時UPされていた動画より…

宮本氏は取材後、本を購入しここで一休みしました。
ハイ、私も座りましたよ。

ミーハー丸出しですが
でも、ここの本屋さんはいいですねぇ♪
本好きにはたまらん所です。
地元の本屋で見つからない時は、ここへ絶対来る!
そんな風に思いました。本屋はいいよねぇ・・・

 

この日、ジュンク堂で買った本は忘れもしません。

こっちを向いて陳列されていて、目が合ったので迷わずに買いました(笑)

もう一冊、江戸城と大名屋敷を歩く』

後々、この本のおかげでただ縁の地を歩くだけの散歩ではなくて、色々と調べながら歩けてとても有意義なものになりました。

 

今も時々になってしまいましたが、宮本浩次が歩いたであろう場所、イメージさせる場所に行ってみたりしています。たまたま、自分の暮らしている街がその舞台になっている場合もあります。

振り返りながらまた紹介できると思います。

風に吹かれて -エレファントカシマシの軌跡

風に吹かれて -エレファントカシマシの軌跡

 

 

江戸城と大名屋敷を歩く (こだわり歴史散策)

江戸城と大名屋敷を歩く (こだわり歴史散策)

 

 

エレファントカシマシ

エレファントカシマシとは編集

 

 

宮本浩次が私にくれた楽しみ…③『散歩』編

散歩編「向島①」

きらかな夜には風露の蕭蕭と音する響を聞いて楽んだ。

これは荷風随筆』の中にある・・・ 「向嶋」の章にあった一節。フランスから帰国した荷風がパリのセーヌ川の風景を隅田川に重ね合わせ、隅田川が江戸庶民ならず広く文化人に愛されていた川として紹介しています。

荷風随筆』は、こちら『日和下駄』という散策記と一緒に掲載されています。

私は奇しくもこの本に登場する「向島」界隈を住み処としてます。なので、宮本から永井荷風に興味をもって色々と知るうちに自分に縁ある町に辿り着いて、ついにこの本を片手に現場検証するまでに至りました。

日和下駄 (講談社文芸文庫)

帯は破れ本にはシミも・・・ぞんざいな扱いになっておりますが・・・宮本が古地図片手に、現在のその場所に足を運んでいた時の楽しみに似た体験ができて、自分の住んでいる町に深い親しみと愛着を植え付けてもらいました。

また、この日和下駄を読んでいると、宮本もまた荷風の歩いた街並みをトレースしていることがわかるのです。

『明日に向かって歩け』通称、赤本を読むと荷風の歩いた皇居周辺の地名が沢山出てきて、赤本の中の本文や“宮本三十四景”にもその地名、風景が宮本の目線で描かれていて、私は荷風と宮本の軌跡をうっすらトレースしてるのです。

まぁ、その中でもとりわけ浅草、向島、本所、深川といった場所は私も四半世紀以上住んでいるので、とても興味が湧くし日常の生活の中にその風景が私の眼に映るのが、非常に感慨深いのであります。

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この『向嶋』の章に“枕橋”という橋が登場し、旧水戸藩のお屋敷跡が近代的な公園になる計画のことが載っています。

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この枕橋を渡った先に水戸藩邸跡があり、関東大震災で屋敷が全壊したのち復興事業として公園に生まれ変わり憩いの場となりました。

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隅田公園に隣接したところに、小説「風立ちぬ」の著者である堀辰雄が幼少~中学(現在の高校)、結婚するまで住んでいた住居跡(案内板のみ)もあります。

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宮本浩次は(おそらく創作活動の一端として始めた)散歩を楽しみ、そのことが私の散歩の楽しみにもなりました。何となく歩く散歩もいいけど、こうして何となく目的のある散歩していることは、自分にとって心身の糧になるものになっています。

そして、宮本が散歩をしたり古地図で東京をめぐって自分の故郷を探そうとしたように、私も東京・地元への愛着をみつけはじめたような気がします。

私の両親は信州の生まれ。東京育ちの人間は私からスタートしているから、私から東京の歴史が始まっているといえます。だから、宮本が東京の中で自分探しの散歩を始めてくれたことに、私は心から感謝しているのです。永井荷風を教えてくれて感謝しています。

 

宮本浩次に出会えて本当によかった。こころからありがとう。