『偶成』とは『極楽大将生活賛歌』
エレファントカシマシのツアーでは、これまでツアー先の土地の雰囲気に寄せた曲を“目玉”として入れてくる傾向があります。それがエレカシのLIVEの楽しみの一つでもあったりしています。
“悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~”ツアーでも、ご当地ソング的に1、2曲セトリに入れてきていた。
前記事にも記しましたが、このツアーではLIVEが終わるとそのツアーのダイジェスト動画がオフィシャルからアップされていました。
2011年04月04日09:58「偶成」
2011.4.02 新潟LOT で披露された1曲。アルバム「生活」に収録。
このアルバムは持っているものの、初期の作品はじっくりと聴いたことがなく…
4月2日から始まったエレファントカシマシのアルバムツアー “悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~”の初日で久しぶりに演奏したという…事です。
流し聴きしていたのですが、改めて聴いたらあまりに刺さったので…日記にあげておきたいと思います。
ああ俺には何か足りないと
何が足りぬやらこの俺には
弱き人のその肩に
やさしき言葉もかけられず
人を思ううちが花よと
わずかに己れをなぐさめた
まさに、こう自問自答し街中を歩いていた私。
まさに、優しい言葉もかけられず、
でも、人を想えるだけでも、まだマシかと励まし…
「何が足りなかったのか?」
と、模索していた日々…死ぬまで結論は出ないだろうと、悟り
それでもまた、繰り返し考えながら生きるんだなぁ~って…
『偶成』とは…なんだろう?と調べてみたら、
詩歌などが、ふとでき上がること。また、その作品。
とあった、
また、中国の漢詩にこのような作品がありました。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
少年老い易く 学成り難し
一寸の光陰 軽んず可からず
未だ覚めず池塘 春草の夢
階前の梧葉 已に秋声若者はアッという間に年をとってしまい、学問はなかなか完成しにくい。だから、少しの時間でも軽軽しく過ごしてはならない。
池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、階段の前の青桐(あおぎり)の葉には、もう秋風の音が聞かれるように、月日は速やかに過ぎ去ってしまうものである。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これを知って、更に一生勉強だな…って感じてしまったけど。
きっと、ミヤジは若い頃からこんなものを読んできたんだね。
そして、苦悩してきたのか?って、勝手に想像している。それにしても初期は難しい言葉使い過ぎ。
イチイチ調べるから少し賢くなった気にもなるけど(笑)
意味がわかっただけじゃ、意味はない自分に刻みこんでいこう!
宮本さんありがとう
震災後の私は、mixi内で息巻いていました(笑)
「復興!復興!」何かやれることがあるじゃないか!って鼓舞しまくっていました。周りの気持ちなんておかまいなしでした💦
この頃、その自分の想いとマイミクさん達との気持ちが空回りし始めていました。そして、この新潟のLIVEに行っていた方がこう諭してくれました。
「リストラの歌」とかなんとか言って始まりましたよ
>「何が足りなかったのか?」
と、模索していた日々…良かれと思ってとってる行動言動が
相手には重荷だったり邪魔だったり良かれと思ってる事って本当にそうなのか?
もしかして自分が気持ちいいだけなのかも?難しいですね
まさしくこの通りだったんですよね。
2011年05月23日09:03「極楽大将生活賛歌」
2011.5.21 大阪国際会議場メインホール(グランキューブ大阪) 1日目で披露された1曲。
人それぞれの思いやりと行動で、人は皆、いろんな形で救われていく。
己の「我」のせいで大切な仲間を失いました。
もちろん悪気があったわけでもなく、大切な人を想うあまり猛進した為、
何も見えなくなり結果、多くのかけがえのないモノを失うこととなったの。だけど、不思議な出来事もいっぱいあってなんていうか…
自分からはたらきかけたわけでもないのに、新しい仲間もできてきて…ん…私は隠しごとが嫌いな方だから、昔の日記とかも見せるようにしていて、ありのままでいても、大丈夫?かなって思えはじめた。
壊れたら…もう戻らないかもしれないけど、
極楽大将生活賛歌元気な極楽大将生活賛歌
憐れな大将全てが希望
にいちゃんもねえちゃんもとうちゃんもかあちゃんも
老いも若きもおめえも俺もみんなまとめて極楽大将
楽しくやろうぜ極楽世界望みは高いぜこれで行くしかないね
気づいていながらなかなか認められない自分もいて、私はもがいていました。そして、程なくして“無力”を実感したのでした。
ただ、自分が言い始めたことで当時、いろんな支援の形や方法が紹介されていたので、自分なりに実践だけは続けていました。
東日本大震災以後も日本では様々な災害が起きているから、このことだけにとどまらず何かできる支援があったら、小さなことからでも始めたいって心がけることができました。
2011年06月06日11:25 『うつらうつら』
東日本大震災直後に「悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~」ツアーが始まった。被災地(盛岡、仙台、水戸、千葉)でのLIVEも行われた。
水戸LIGHT HOUSEでのLIVEはいろんな意味で語り継がれている。私の東京の知り合いも何人かあの会場に行っていた。余震もまだ多かった4月上旬。小さな子供がいる人もいて道路も交通機関もまだ、安全とは言えない怪しい時期だった。私はたまたま水戸はエントリーしていなかったけど、家族を置いてまで水戸に行くという発想にいたらず、当時はその行動に奇異を感じたものでした…。
震災から7年、人の記憶も薄れて風化されていく…真剣に災害への意識はもっていたい。そこで、さいたまスーパーアリーナでの30th Anniversary Tour Finalまで、2011年のこのツアーの一部をダイジェストですが紹介したいと思います。
仙台Rensaの公演はU-STREAMで生中継されて、多くのファンが同じ時間を共有した画期的かつ貴重な時間だった。
◆6月3日:仙台Rensa
小鳥の囀る声 ベランダで微笑みながら
今日は何処へ行こうか 今日は何処に出かけようか
-エレファントカシマシ「うつらうつら」より-
波はありますが、このところは出かける頻度が多いですねぇー。
先日の佐野元春コミュのイベントしかり、それに絡んでマイミクさんと会ったり…他にもLIVEにも出かけ。
普通に遊びにも出かけ…なんですかね?うつらうつら…物憂げな時間から抜け出し、自分が動き出すと周りの景色も変化する…あたりまえの現象。
楽しくて仕方ないです
大切にしなきゃ!!~~~~~~~~~~~~~
この6月3日の仙台Rensa公演は“Ustream”で生中継されまして、
私も最初から最後まで鑑賞させていただきました被災地での公演は“水戸”…“千葉”に続いて、3ヶ所目ですか?
当初はホールでの公演でしたが、予定していたホールの損傷が激しく、使用不可…この事でも被害の大きさを物語りますね。で、仙台Rensaに会場変更し行われたわけですが…。
ダイジェストだけでも十分つたわりますが、生中継を観てるとメンバーひとりひとりの顔もよく見えるわけで、その気迫が…すごかったです。
オーディエンスもなんていうか…“硬派”な盛り上がりで、エレカシも真摯だったし、オーディエンスも真摯で… ただのお祭りワッショイではなく、噛みしめる歓喜に深く感動をしました。気づけばパソコンのディスプレーに顔が…ww
そんなに近づかなくても…っつーくらいに乗りだしちゃってました。白シャツ、黒ジャケで登場し歌いますが…まぁ、途中ジャケットは脱ぎますね。
で、今回…うろ覚えですみません。たしか、“ココロに花を”の時にまた、ジャケットを着たんですよ。とにかく後半でまた着たんですね。
私はその行為にミヤジの『哀悼』を感じたりしました…。
気のせいと言われたらそれまでですがね…。
旅の途中いってみりゃ人生は
偶然の風の中
やさしさ求めさすらう
旅の途中たとえばおおげさな そう俺は
嘆きの中沈んでゆく 冬の光
遠い風が呼んでるぜ喜びは突き刺さる偶然から
風をはらみ 海原向う行く船のように
人生はいつもでも旅の途中 行こう
誰も知らぬ明日に向かって
進んでも留まっても、時間は過ぎてくもの…
何もみつけられず、ただ苛立ちまぎれに生きるなんてまっぴら。
いろんな人と巡り合い、広がった世界…風景…同じであって同じじゃない。
動いていれば色々と変化する。これもまた楽しい他力本願にはなるまい。
自力本願じゃ(笑)
今では体温調整でジャケットの脱ぎ着をしてるんだ。ってわかるんだけど(笑)
この時、初期のツアーで追っかけまでしていたコアなファンの人と少し交流していて、その方が
「宮本は昔からライブ中も空調を気にしていましたよ。
よくジェスチャーで温度を上げろ上げろと…
私も見ていて、あっ寒いんだなって思いました」
と、ご指摘いただいてちょっぴりしょんぼりした記憶があります(笑)
私はこの「悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~」ツアー全27カ所中…
この3カ所に行きました。クリックしたら当時のことを書いた記事に飛びます。
当時、各会場のダイジェスト動画も公開されて各会場の様子を垣間見ることができたのですが、残念ながら今はその動画は削除されていて観ることができません。
また、観ることができればいいのにって思ったりします。
2011年03月13日21:18 体験した事として、綴るだけ…
mixi期に残したあの日の日記です
3月11日午後2時46分
お尻に縦揺れの振動を感じた。嫌な予感がして、隣の社員に
「大きいかもしれない」と告げると、同時に大きな横揺れ。
オフィス内の人が一斉にデスクの下へ潜り込んだ。
私はしばらく耐えていたが、窓際の天井パネルが抜け落ち、
パソコンが倒れ…机の引き出しが開き…
さすがに私もデスクの下に潜り込んだ。その瞬間、
オフィス中央の天井パネルが抜け落ち、ダクト、配線類、
空調があらわになる。
振動と共にダクト、空調も揺れ今にも落ちてきそうだった。多少揺れが収まって、デスクからでると棚からパンフレットが
飛び落ちて、床に散乱し抜けた天井から白い埃がでて充満。
社員さんの誘導で外へ避難…。
オフィスが駅の高架に建っているので、免振設計になっているとは
思うが、6階とはいえすごい揺れだった。30分ほど近くの広場*1にて避難をし、すぐにその場で解散となった。
各社鉄道は止まっていたし、タクシーを拾えど道路も既に渋滞。
家まで歩くことに覚悟を決めた。
私は通勤時、少しウォーキングをしているのでその日もスニーカー。
毎日、少しずつでも歩いていたことがこんな事に役立つとは…コンビニで菓子パンと水、携帯用の電池を購入し出発。
会社から家までの距離は10.8km、時間にして3時間。
思ったより遠くなくて逆に驚いた。
40数年生きてきた中で初めて観る光景…道と言う道が人であふれ、
道路が車でいっぱいだった。
一人で歩く心細さもなく、なんというか家に向かう目的が一緒。
そんな風に思えて、歩くのも苦じゃなかった。家は築40年以上(実際は築70年)の古い家屋…倒壊しているのでは!?
そんな不安が頭から離れない。
電話もつながらないし…信じるしかなかった…。
歩き始めて1時間位した時、やっと長男に電話がつながり
「母ちゃん!大丈夫か?」と、言われた。
内心、大丈夫だから電話してんだろ!とか思いつつww
「大丈夫だよ。それより、おばあちゃんは?○○(次男)は?」
「皆、無事だよ」
「○○(次男)は泣いてない?」
「ぜんぜん…すごいテンション高いよ…」
そんな、会話を交わし安心して歩きを開始した。人も車も途切れず…こういう非常事態の時って人はハイテンションになり、 一瞬、「不謹慎」とも取れる発言をする。
「一生にこんなこともうないよね!ある意味、貴重だよね!」と
言いながら、人ごみを写メする若者。
そんな、私も自分を励ますかのように写メして、ボイスしたり…。
河を眺めながら
「こんな時こそ屋形船で送迎してくれればいいのに」
とかいうサラリーマン…さすがにこれには呆れたけど…
現実から逃れたいという思考が、そういう発想にさせるのだと感じた。
3時間強で家に無事到着。
家に着くと玄関に水のペットボトルや、お菓子類の入った袋が置かれていた。
旦那から電話があり、職場待機命令が下され帰らないとの事。
何かあれば、私が家族を守るのだが…私の家族も案外頼もしい事がわかり
安心していた。深夜、テレビを見ていると…想像を絶する光景が目に飛び込んできた。
9.11 *2の起きた朝、テレビを付けた時の感覚… と、同じ。
「え?なに?」
CGなんかじゃない現実の災害が目に飛び込んで来て、一気に鼓動が強くなった…
何とも形容しがたい感情が湧きあがった…。
心配に思う友の顔がいくつも浮かんだ…安否を確認したい…でも、
不用意にメールやら電話する事は出来ない…そんな状況じゃない事は、
想像がつくから…
『何もしないことも“勇気”だ』と、言い聞かせた。
きっと、mixiになんらかアクションしてくれる!そう信じて祈るしかなかった。
幸いマイミクさんの安否は確認できた。
今はその事だけにでも感謝だ…マイミクさんの親類や友人の安否を考えると、
両手離しでは喜べない…だから、それ以上の事は言えない。今は自分にできる事と確かな情報を自分で収集し協力するだけです。
あれから7年なのですね…。
あの東日本大震災はいろんなことを学ばせてくれたし、いろんなものを奪っていったし、いろんなことを変えてしまった気がします。周りばかりでなく自分も。
失くしたモノ壊れたモノはまた築きあげればいいけど、かけがえのないものだったと気づくきっかけにもなった。
ときどき、あの子は元気かな?あの人はどうしてるだろう?あの子のお子さんも大きくなっただろうなぁ…うちの子と意気投合してたし…とか、いろいろ巡る。
このあとも心は大きくうねって…グラグラ揺れて傷ついたり傷つけたりいろいろあった。そして、今もこうして生きてる。
ありがたいことです。
そして、ちゃんと今日の日はあの日を思い出さなきゃいけないなって思います。
mixi日記のお引越しをしているので、この数日は震災後のことをここに少し移動しようと思います。30周年祭り関連でなくてなんだかな…ですが(笑)
もしも、2011年3月11日が、いつもの一日だったとしたら。|3.11、検索は応援になる。 - Search for 3.11
30th ANNIVERSARY TOUR ”THE FIGHTING MAN” FINAL まで…
3.17 さいたまスーパーアリーナ公演
まで、一ヶ月を切りました。曲予想、勝手にリクエストとか(笑)いろいろやれる企画はありますが、最近、ずっと考えていることがあるのでそこから…。
通勤中に聴いてて「あれ?」と、気がついたというか…「ん?」って思った事。
「未来の生命体」*1を聴いていたら “全てを未来に預けてきた” とか、
まずはこの部分がひっかかった。
次は「勝利を目指すもの」*2 を聴いていて
“友” とは自分の事で…知ってか知らぬか、昨今の自分を予想したかのように信じて歌ってきた証だな…って…。
この2曲を拾っただけでも、ミヤジの未来予想図はちゃんと歌の中にあった!って改めて思った。
未来の生命体が収録されているミニアルバム「DEAD OR ALIVE」*3は、直訳すると“生死”生きるか死ぬかの瀬戸際って意味で、ある意味遺言のように作ってたのかな?預言書のように残したのかな?って思ったくらいで…当時の状況を知ろうと思って、ようやく 俺たちの明日 上巻―エレファントカシマシの軌跡を開き読んだ。
ポニーキャニオンから東芝EMIにレコード会社が変わって、一時期バンドメンバーとの間に空白の期間があった。本を読むにつれ…“エレファントカシマシ”を名乗りながらも事実上は“宮本浩次”の単独期間があった。バンドとしての再始動がこの「DEAD OR ALIVE」。
次の勝利を目指すものが収録されている「風」*4は、バンドに帰ったものの…なんとなく風に揺れているのでは?っていう宮本の心情も見えたりなんかして…。でも、このアルバムには友達を心のよりどころにしてみたり、期待を持っていたり…夫、父親のような心境にも近かったのかな?
「俺がやらないで誰がやる。こいつらがいるのに…」
そんなアルバムだと思っていて、“勝利を目指すもの” の “友”は実は宮本自身の事と思ったのは、自問自答して己と対峙し自分の心を確認しながら歌っている…って、思えた。意識してたかそうでないかはわからないけど…私には展望がちゃんとあって作っていた時期のような気がした。
EMIの契約が打ち切られる予感を口にしていたエピソードを何かで読んだ。宮本に何か秘策があったのかどうかはわからない。でも、もうすでに次が見えていたとしか思えないし、見えていたとしてプロモーションや音楽的な方向性も決めていたのか?だとしたらやはり、宮本は相当な策士だと思う。
その生き様が まだ見ぬ友へ
未来の人の“笑い”となるように…
極めつけはこれ。
未来の自分(仲間や関係者)とファンの笑顔になるように…“行かなきゃなるまい”で、ここまで来ちゃったよね。 今が思い描いていたものではないかもしれないけど、あのころ未来に置いてきたものが花を咲かせている。その花を摘んで花束にできたのではないだろうか?
30th ANNIVERSARY TOUR ”THE FIGHTING MAN” FINALは、いったいどうなってしまうんだろうね…?25thの時に
「エレファントカシマシは、さいたまスーパーアリーナを埋めることができるんだ!」
っていう自信が芽生えた。でもあの時は活動休止明けのご祝儀要素もあったと思うから、今度の30thこそが真価なんだよね。
エレファントカシマシは確実にこの5年間で盤石な活動基盤を作ってこれたと思う。今まで出していなかったことを切り売りしながらでも、この先は充分にやりたいことはやっていけるのではないだろうか?例えばマイナー路線でマニアックにいったとしてもそれはそれで目新しくみえるだろうし、何をやってもそれはそれであたりそうな気はしてる(笑)
二十歳のとき、私は何をしていたか…
昨日発売されたPOPEYE 851号のテーマが『二十歳のとき、何をしていたか?』で、各界の有名人の二十歳のエピソードが紹介されている。
この中にエレファントカシマシの宮本浩次のエピソードも…
ミヤジのインタビューは目新しい情報はなかったけれども、最近はあまり語られなかった、20歳の頃に恋愛していた人との話が頁の片隅に載っていた。
この彼女とのことかは不明ですが…クリスマスイブの晩に、彼女が作ったフライドチキンを空腹の苛立ちでチキンの皿をひっくり返した話しは有名。
胸が痛むけど私にも似たようなエピソードがある。
私も20歳の時にはお付き合いしている人がいた。出会ったのは19歳。
思い出すのは…セピアやモノクロの思い出ではなくて、色鮮やかで輝きに満ちた思い出です(笑)
待ち合せの時間に遅れて来た彼。一緒に食べようとファストフードを買って待っていた私。携帯なんてない時代。“遅れるよ”と伝える術もなく仕事をやっと終えて登場した彼。若気の至り…私はかなり不機嫌で謝る彼をなかなか許さない。
とうとう、彼は逆ギレする。
私はファストフードの袋を駅のゴミ箱に捨てる。
離れて歩きながら家に帰る。途中、私は道を変える…また、合流する。泣きながら私謝る…。そのあとは……。
こんななんでもないよくある?恋人同士の痴話喧嘩も30年以上も経つとホントキラキラするものだ(笑)
私は成人式の振袖を自分で買った。そんなことで大人になった気持ちを味わっていた気がする。22歳で当時の彼と別れた後に運転免許を取って、軽自動車(SUZUKIアルト)をローンを組み新車で買った。
友達や母を載せてドライブしたり買い物に行ったり、夜中に一人ドライブしたり…今みたいにナビもなかったから、誰かといった場所が多かったけど湾岸線を走るのが好きだったなぁ。
私が失恋後の立ち直り期間中(笑)に、エレファントカシマシはメジャーデビューをしていたのね(笑)私は彼らの存在を全く知らないで、結婚や育児で10年ばかり生きてきました。
【東京の空②】高輪・泉岳寺
2008年12月17日の日記
私の旦那は『忠臣蔵』が大好きで、暮れも押し迫る頃のテレビ番組欄に忠臣蔵、赤穂浪士、大石内蔵助などのワードをみかけると、熱く語りだし耳にタコができるほど聞かされてきました(笑)。なので、四十七士の眠る泉岳寺は知っていたし少し興味がありました。
私の住む街は四十七士やその縁の人達にとっては仇となる、吉良上野介の屋敷つまり討ち入りのあった吉良邸があった街です。なので、泉岳寺には興味が大きかったといえば大きかったのです。
宮本浩次(エレファントカシマシ)『東京の空』の特別編の中に、この“泉岳寺”も紹介されています。
中門を入ると右側にお土産物屋さんがあるのですが、その前で撮った写真なんかもあります。
そして、ミヤジの母校(高校)がこの泉岳寺の隣りにあります。
本には“12月の討ち入りの頃になるとお線香の匂いが漂うのだけど、期末テストなんかの頃で…”そんなエピソードを絡めて、高校時代の話しが綴られています。
旧暦の12月14日が赤穂浪士討ち入りの日で、その3日後に泉岳寺へ訪れた時の日記です。
今日は冷たい雨が降る中、 “赤穂四十七士”の眠る「泉岳寺」に行って参りました。
▲泉岳寺山門去る、12月14日(赤穂浪士討ち入りの日)*1は、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭が・吉良上野介に切りつけた、松の廊下事件に端をはし、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしという結果に、不服とする大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)が本所・吉良邸へ討ち入った日です。
吉良邸から引き揚げた浪士は浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺に向かい、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。
その後の浪士たちは切腹をし、その亡骸がここ「泉岳寺」の 墓所に葬られています。
▲赤穂四十七義士墓所入口
たぶんこの土日は、四十七士をお参りする観光客も多かった事でしょう。
この雨の中、私も訪れた一人でありますが、雨の泉岳寺は香を焚く匂いが立ち込め、数人の人が訪れて手を合わせていました。
墓碑をみますと、20代・30代・40代・・・若い人が多く、大石内蔵助の息子、主税(ちから)にいたっては若干16歳で切腹です。
昔で言う16歳と言えば、元服(成人)・・・15歳で成人として扱われていたから、討ち入りに参加し沙汰も受けるというのは当たり前の時代でした。「赤穂浪士」「忠臣蔵」の話は、忠義に厚い家臣の美談として知られていますが、歌舞伎の演目として創作された部分も多いらしい。
私の住む町は赤穂の義士たちにとっては敵となる「吉良上野介」が暮らした町(吉良邸跡)が近い。
後日、そこも訪れてみようと思う。この辺では、吉良上野介は良い殿様で知られているらしい。さて、前置きが長くなりましたがここ泉岳寺は宮本浩次の母校にとても近く、実はそんな事とは知らずに、数年前に来た事があります。長男が小学6年の頃に受けた外部テスト(模擬試験)の会場だったので、何回か通ったことが・・・。
『忠臣蔵』というのはあくまで歌舞伎や人形浄瑠璃の演目名であって、史実上では『赤穂事件』というらしいです。
この赤穂事件に脚色がされているのが、一般に知られている『忠臣蔵』なのですね。暮れになると多チャンネルのどこかで関連している映画やドラマなどが放送されるので、旦那は飽きもせず時間が合えば観る。
そして、義士達の忠義や江戸の町の人情の場面になると泣きながら観ている。これまでに大石内蔵助を演じた役者の人は沢山おりますが、
松本幸四郎(現、二代目松本白鸚)、市川染五郎(現、十代目松本幸四郎)親子が大石内蔵助、大石主税の親子を演じた作品が私の中で印象がとても強い。
その二代目松本白鸚の弟、中村吉右衛門の演じた大石内蔵助もなかなか好きです。
*1:元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)
2008年12月10日:武蔵野の男 下総の女
最近は宮本浩次の事を“ミヤジ”と呼んだり、“宮本”呼ばわりすることが多くなってきたけど(笑)この頃はまだ、どう呼んでいいのか戸惑ってる時期ですね。
周りには彼を“先生”と呼ぶ人もいたりして、でも先生ではないな…と思っていて(笑)(私の方が2週間くらい年上だしねw)
宮本氏とかミヤジ氏とか… だったね。すぐに“氏”は取れてくるけどw
ミヤジ(宮本浩次)氏は、武蔵野に思い入れがとてもあるらしく歌にしてしまったほどです。
武蔵野/「good morning」
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- メディア: CD
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東京はかつて木々と川の地平線・・・
武蔵野の坂の上 歩いた二人・・・
ミヤジの生まれ育った街、北区赤羽はそんな武蔵野台地にかかっている荒川に程近く、川向こうは埼玉県。
彼が暮らした団地は小高い丘になっていて、坂道があるようなところ。まだ、エレファントカシマシをよく知らない頃に偶然に一度だけ、赤羽団地を訪れ歩いた事がある。
今思うと、訪れたのは日曜の午後だったのに静かなところだった。
たぶん、ミヤジが子供の頃にはもっとにぎやかで子供達の騒ぐ声が沢山聞こえただろうな・・・そんな事を思った。
高度経済成長の頃には、団地と言うものが夢の住まいで沢山の若い家族達が入居し、そこで子供を生み育てていたと想像できる。ミヤジはそこで、恋もしていたのだろう・・・
私は下総国、千葉県との県境、江戸川区で育った。
ここは東京(23区内)でも本当に田舎の中の田舎だった。
私が暮らしていた頃は、田畑が沢山あってザリガニをとったり、空き地もいっぱいあって、野花で遊ぶ事もできた。
河川敷に生い茂る、ススキのような背丈の高い草をつかって秘密基地を作ったり(20世紀少年 -第1章- 終わりの始まりにも出てきたけど)、迷路のように、獣道を作ったりと野生児のように暮らした。
そんな、北区も江戸川区も今はすっかり人の住む街になり、昔の面影もなくなってきているだろう・・・。江戸川区は更に如実に違いが出ている・・・何年か前に行った時、あまりの変わりように、正直唖然としたほど。
20代の頃、付き合っていた彼のアパートも、彼の通っていた銭湯もなくなり迎えに来てくれた地下鉄の駅も、駅ビルになりバスのロータリーまでできパチンコ屋、ファミレスまで・・・想像もつかない発展ぶりです。
淡い恋の思い出は、幻に・・・(そういえば、その彼は武蔵野国育ちだったな・・・)。
でも、たぶんあの河川敷だけはそんなに変わっていないと・・・ぜんぜん見に行っていないけれどもね。
読んでて気がついたのは、江戸川区が田舎町であった期間は長く、北区はすでに高度経済成長で人が暮らす街だったじゃんってこと💦江戸川区は私が結婚し離れてからも数年の間、田畑の残る様なところだったわ。
江戸川区、北区、共に戦時中に軍需工場がありました。北区の軍需工場の規模はかなり大きいものだったようですが…。私が今住んでる街にも多かったです。江戸川、荒川、隅田川周辺は空襲の被害も多く、戦後焼け野原なった地域ですね。
なぜそこに着目したかというと、2009年の夏に『康子十九歳 戦渦の日記』という本をもとに『康子のバラ ~19歳、戦渦の日記~』というドキュメンタリー番組が放送されて、私はその番組がきっかけで本を購入して読んでみました。
康子さんは東京女子師範学校の学生在籍していたが、北区の十条・王子にあった軍需工場で勤労動員として働いていた。本の冒頭にその場所が登場する。赤煉瓦で囲まれた要塞のような施設…。
エレカシがデビュー30周年で出した。『All TIME BEST ALBUM』のデラックス版に付いていた、期間限定特典映像の中で語っていました。
「まだ、カメラマンになる前の岡田くんが俺を撮りたいっつって、昔、軍需工場があった場所の塀の辺りで写真撮ったんだよ。」(デラックス版の写真集にはその写真もあります。)
この言葉を聞いてとっさいに思いだしたのが、この本の事でした。
ちょっと日記の内容とかけ離れてしまうようですけど、この本を思い出したついでに綴らせてもらいます。
この康子さんは工場の中で兵器部品をつくる部署に配属されるのですが、そこでコンビを組む男子勤労動員3人に自宅の庭に咲いた「赤い薔薇」を差し入れしたという記述がありました。雑然とした兵器工場に彼らは、康子さんが差し入れする庭の花を飾り作業に励んだという。
『康子のバラ』は確かこの場面の一回しか登場しませんが、このバラを受け取った工員のお一人が台湾からの留学生だった男性で、彼の記憶には深く残っていたようです。のちに康子さんに思いも寄せていました。
このくだりを読んで、エレカシの赤い薔薇を思い出したし、悲しみの果ての「花を飾ってくれよこの部屋に」も思い出した。でも、康子さんは華やぐ街の赤い薔薇にはならず、彼女に思いを寄せたまま自国に帰国した、男子留学生の記憶の中の赤いバラになってしまいました。
私はこの話を関連づけるつもりはないのですが、連想させたエピソードとして記し残したいと思いました。
康子十九歳 戦渦の日記 (文春文庫) 機会がありましたらご一読ください。前半はエレカシの曲がBGMで脳内再生されることが多かったです。
康子さんのお父上は公人で戦争当時、広島市長をされていて原爆で亡くなったようです。康子さんは被爆し生き残ったお母様を看病するため広島に行き、二次被爆の末に20歳目前の19歳で亡くなったそうです。
花を飾ったその軍需工場の跡地がある北区で、青春時代を過ごしたエレカシのメンバー…悲しみの果てに素晴らしい日々を生きています。
- 日本のロックバンド。通称エレカシ。 1981年、赤羽にて結成。1988年にデビュー。 バンド名の由来は諸説あるが、結成当時流行っていた映画「エレファント・マン」と「かしまし娘」をあわせたものというのが有名である。 2012年9月にボーカルの宮本浩次が急性感.. 続きを読む
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