正午向嶋…私の徒然『新・正午浅草荷風小伝』を観て
2019年4月24日(水)『新・正午浅草荷風小伝』を観劇しました。
このブログ内でも永井荷風をカテゴリーにしていくつか記事があります。
永井荷風に絡めた記事を記す理由も既出してますが、改めてお話ししますと…。
エレファントカシマシの宮本浩次が永井荷風のファンで会ったという事から、調べていくうちに永井荷風が晩年、私の暮らしている街の辺りを気に入り心のよりどころにしていたことがわかり、小説『濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)』がその舞台であると知り、『日和下駄 (講談社文芸文庫)』や『永井荷風という生き方 (集英社新書)』を買って読み…いつしか自分の興味関心になっていきました。
エレファントカシマシの宮本がどういう過程で永井荷風のファンになったか?それはわからないのだけど、彼は森鴎外の熱烈なファンでもあって永井荷風は森鴎外を師と仰いでらしたので、その関連から荷風を知り荷風の魅力にも魅せられたのかしら?と思った。
かつて雑誌で紹介された宮本浩次の部屋には永井荷風の写真が飾られている。
さて、『新・正午浅草荷風小伝』ですがネットのリサーチ力のたまものか?私の好きそうな情報を広告で知らせてくれる。その中にこの観劇のチケット情報があがってきた。
私はお芝居というものを自ら進んで観に行ったことがない。よしもと新喜劇くらいです(笑)あとはお友達のお誘いで宝塚を数作品、黒栁徹子さんの「想い出カルテット」を観たことあるくらいです。それが初めて自ら観に行きたい!と、思いチケットを購入したのがこの『新・正午浅草荷風小伝』でした。
お芝居の舞台は荷風が晩年暮らした千葉県八幡の家での回想シーンですが、我が街に足を運んでいた場面も登場すると知ったからです。題名にもある「浅草」も私の散歩圏内。本を読んでその場所を廻ったりしますが、お芝居を通して観た時にまるで本物の荷風が現れ、その思い出の土地を語っているように見えて…どんな思いで下町を訪れていたのか?その機微の部分がリアルにつたわった思いがしました。
もちろん荷風の肉声は聞いたことはありませんが、きっとこんな風にお話しをし声をしていたのでは?と感じるほどでした。演じられた水谷貞夫氏は御年84歳、劇中の荷風は40代頃から亡くなるまで(79歳)の年齢。当時の79歳と現在の84歳はあまり変わらない気もして、荷風の雰囲気というものが画として見ることができたのは嬉しかったです。
ストーリーは二人の女性を中心に展開された。荷風のお妾だったという元新橋の芸子「お歌」、『濹東綺譚』に出てくる玉ノ井の娼婦「お雪」。この二人の女性の境遇と立場の違いから、荷風の中にある“女性像”というものが二種類対極に存在しそれが、真実味のある女の実態として如実に表わされていたと感じた。
その実態を知った時、荷風にとって女性というのは常にそばに居て欲しい者ではなく、「理想」の女性のままで存在してほしかったのだろう。そして、都合よく逃げ込める心地よい場所であってほしく、実際そうであったのだと思う。
最後、キャストの皆さんが登場し荷風を演じた水谷氏が出てきた瞬間、私の眼には涙が溢れた。お芝居を観て泣くなんて思いもしなかったので、自分でも驚いた…。正直、永井荷風の「断腸亭日乗」も読んでいないし、小説も「濹東綺譚」しか読んでおらず、もっぱら永井荷風の生きた軌跡に魅力を感じているだけの“にわか”にしかすぎない私が何故でしょうね…。
たぶん、人間の本質的な部分に魅力を感じてきたことや、その人間味という部分では冒頭で紹介した、私が大ファンのエレファントカシマシの宮本浩次と重なる部分を見出したからだと思います(歳を数えで言ってしまうとか、馴染みの女性の家に行っても泊まらず必ず帰宅するとか、そういう細かい部分も)。
彼は若い頃に作った『道』や『歴史』歌の中で「死にざまこそが生き様」と歌っている。劇中の荷風の台詞に
「生まれ方は選べない。人の手を借りなければできないけれども、死に方は選べるから」と、「鴎外先生の命日と同じは無理でも同じ“9”の付く日に死にたいなぁ」と、記者に話すシーンがあった。
私ももうじき53歳になります。プレ終活期に入ったと思ってます。荷風がやりたいことをやり始めた年頃と同じです。そして、そのやりたいことを52歳でやりはじめた宮本浩次とますます被って見えてしまったのです。
大きなことはできませんけれども私もできるだけやってみよう!行ってみよう!と思った事は行動に移していける生き方をこれからはしようと思っています。
まずはこのブログ記事でも記した通り、荷風ゆかりの場所を散策することがちょっとしたライフワークになるかと思ってます。
yumcha-elekashi.hatenadiary.com
この本を参考にしながら巡るつもりでおります。
そして、ゆくゆくは終焉の地、八幡へも足を運べたらと調べものをゆっくりペースでやっております(笑)
いろいろな巡り合わせでこのお芝居とも出逢って、自分のこれからというものを再確認できるきっかけの良いお芝居でした。
「新・正午浅草―荷風小伝」 を観劇後、帰ってきてから早速、この本を開いてみる。お芝居の舞台となっている場所、晩年の荷風の様子がわかる一冊「荷風極楽」。
劇中にも出てくる、身の回りの世話をしてもらっていた女性がいるのですが本の最後の方に、荷風の葬儀後に撮られた関係者の集合写真が納められていて、そこにその方も写っていました。 その女性が荷風の遺体の第一発見者でした。
八幡編はこの「荷風極楽」が基本となりそうです。
私の愛用「万年筆」
ミヤジも一ヶ月以上ぶりにインスタを更新した(笑)
ソロ活動が盛りだくさんのわりにインスタの“ネタ”はその辺に全く触れず自由(笑)私はそれが嬉しかったりするけど。
今回は何故か宮本浩次が愛用している万年筆の紹介だった。
私は勝手にモンブランのビンテージかなんかを使っているかな?って想像していたのだけど、“ペリカン”のビンテージでした。
この中で10年位前に購入したと語っているが、その10年前に私も自分の愛用している万年筆について記していた。
2009年10月27日18:25
昔、万年筆のメーカーに勤めていた事があるんです。
まぁ、それ以前から「万年筆」と言うものに非常に憧れがありまして、ほんと1,000円位の安い万年筆で詩などをノートに書いたり、手紙を書いたりしてました。縁あって某万年筆の老舗メーカーで仕事をしていたので、この時、少しだけ奮発して買ったのがこの二本です。
(他にも手ごろなもの買いましたが)左は「鼈甲調」ペン先が14K(中字)で
右は「プロフィット(女性用)」ペン先が14K(細字)です。なんやかんやこれも18年選手の万年筆です。
しばらく使っていなくて、ミヤジへの手紙を書くのに復活しました。
ちなみにインクの色は「BlueBlack」が好きです。
写真が10年前のガラケーで撮ったからか?あまり鮮明ではないです。他にも黒も持っていて、なんやかや同じメーカーで万年筆は数本持ってます。
明治創業の国産筆記具メーカーに勤めていました。その時仕入れた小ネタですが…万年筆は外国から入ってきた筆記具です。なので英文のように横に滑らせて書く仕様になっています。そのペン先を日本の縦書き文化に合わせて開発した先駆のメーカーだと聞きました。
なので今、日本で売られている外国ブランドの万年筆のペン先は、おそらく国産のものに変えてあるかもです。
ミヤジが愛用しているペリカンはそんな外国のブランドでも、比較的縦書きにも順応しているブランドだと聞いたことがあったと思います(不確かですみません)。
ただ、専門店で買ったという事ですから、その辺もカスタマイズしてもらっているでしょう。
その後、エレファントカシマシのグッズでも万年筆がでましたね。
これは悪魔のささやきツアーの時.
これが30thの時
どちらもLAMYでした。LAMYはボールペンとかはよくノベルティグッズになるから、万年筆でもできちゃうわね。30thの方はまだ使ってません。
手紙を書くときにこのLAMYを使うことが増えたけど、ちょっと重いんですよねー。そこが残念だったりします。そんなわけで私も万年筆の愛用者だから、インスタのこのネタはまた、お手紙でも書いてみようかな…そんな気持ちにさせましたね。
でも、その前にオーバーホールしてお手入れしないとだわ(笑)
東京『江戸』からまんまで…
2010年01月21日21:10
テレビCMが流れるたびに気になっておりました、Deagostiniから発刊された、 週刊「江戸」創刊号を入手してまいりましたよぉ~~~ん。
時代劇は嫌いな方ではないので、なんとなくワクワクしながら読んで みたいと思っております。
今、私の頭ん中では・・・いつか『浅草から江戸東京博物館に皆で行こう!』 そんなオフ会ができたらいいなー・・・などと思っております もちろん、ここは・・・夜の部もありってことでw 実現するかどうかはわかりませんが、そんな時は是非、ご参加下さいませ(笑)
2012年11月02日 19:51
『東京』を知る上で欠かせないのは、まず“江戸”を知ることです。そう、教えてくれたのは宮本浩次。
宮本が自分の足で探求した『東京』は実に参考になるし、私の好奇心をくすぐるのに十分なくらい魅力的であった。
ある日・・・2年前くらいかなぁ、ディアゴスティーニから「週刊江戸」っていう冊子が創刊になっちゃって(笑)私は全巻集めちゃおうかな?とか思ったくらいに、購買欲をかきたてましたわ。
でも、結局はNo.3までしか買わなかったけど しかし、これは買ってよかったなぁって思いました。ミヤジが東京と江戸について色々と語るときの話(赤本とか)で、あとで検証できたり絵で解説されていたりするので、イメージが湧きやすいですしね。昔、江戸城(皇居)の周りは海だったとか・・・中学の歴史か何かで習ったかもですが私も独自でいろいろ調べてる中、再確認ができてですねホント楽しいものです。
神田のあたりは山だったとか、日比谷は入江だったとか・・・。ミヤジも言っていた、江戸の町は京都の町が手本になっているとか。私でもよくわかる内容だったからお買い得だったなぁって思います。
こうやって文章にする時も読み始めちゃって、なかなか先に進まないという💦3号までしか買っていませんが、これからでもまた増やそうかな・・・っていうか、読んでみたい号もあれば、そんなに興味のない号もあったりするのですが、ボチボチ揃えちゃおうかと・・・わりと私も収集癖があるので
2018年9月19日(水)
そういえばブログにあげてなかったから記憶を遡りつつ…(笑)
エレ友さんといつか一緒にいければなぁ…と、思っていた「江戸東京博物館 」に去年の9月に行っておりました。
と、いうかこの博物館へは気になる特別展があると行ってましたが、実は常設展示は観たことがありませんでした。
この日は『東京150年』という記念の企画展が模様されていたので、これを観に行った流れで常設も観てきました。
1868年(慶応4年)江戸が東京と改められ“東京府”が設置されてから、明治・大正・昭和…その間に巻き起こった、関東大震災からの帝都復興計画、第二次世界大戦から戦災復興そして、東京オリンピックをきっかけに東京は近代都市として目覚ましい発展をしていく…。
歴史と共に変わりゆく東京の姿を当時の地図や写真などを通して、東京の150年を振り返る内容でした。
常設展示はその東京の移り変わりが復元された建造物などによって、よりリアルに体験できます。
まず、中に入ると最初に『江戸城と町割り_日本橋』ということで、東京の中心となる“日本橋”の実寸大が出迎えてくれます。日本橋の上から下(5F)をみると左が江戸時代の右が明治の街のシンボルがあります。
江戸時代は「明治座」の建物が再現されていて、江戸時代の庶民の楽しみ暮らしぶりがジオラマ等で観ることができます。
明治時代は「朝野新聞社」の建物が再現されています。文明開化と呼ばれたとおり西洋文化が取り入れられた街の様子を見ることができます。
これは江戸城の本丸。
将軍に謁見するための白書院から忠臣蔵の「赤穂事件」でおなじみの松の廊下、大広間までを再建時の図面をもとに復元した建物の模型です。
こんな感じに時代ごとの建物、庶民の暮らし商業などが紹介されています。もちろんブログでは紹介しきれないのでここで一つポイントとして…
昭和30年頃から始まる高度経済成長の時に、住宅不足の解消のために急速に建ち始めた、『団地』の1室を再現したものがこちら。
これは西東京市にあった「ひばりが丘団地」を復元したものです。
エレファントカシマシの宮本浩次が育ち暮らしていた、赤羽台団地もこんな雰囲気だったと思います。
2年前の週刊文春に連載されている「新 家の履歴書」のコーナーに、宮本浩次が育った部屋の間取り図が載っていて 、だいたいこんな感じなのかなぁって思いながら見てきました。
江戸から東京…宮本浩次が東京に対する自己同一化を探求していた時代。
彼が自分の足で見て回った東京の街並みと照らし合わせた東京の歴史。それとは一線を引くものではあるけど、この博物館にくるとバーチャルにそれを体感できるので、楽しい場所だとおもいました。
そして、私も生まれてから東京という街で育ち暮らしてきたけど、知らないことが多く知りたい事も沢山見つけられたことが嬉しかった。
【宮本三十三景其の②】「岩淵水門」
水辺を学ぶシリーズ・河川整備の今昔「吾妻橋から岩淵水門」
「宮本三十三景」の散歩シリーズを復活させて、まだ行った事のない場所をピックアップしている中で見つけた。
『岩淵水門』ここへはまだ行った事がありませんでした。
宮本浩次が JAPANの取材で、少し離れた宮城地区という場所で撮った写真があって、その辺りへは行った事があったのですが。
今回はいつ行こかなぁと思案していた時に、春先から秋にかけて地元から水上バスに乗って岩淵水門までいける便があるので、そろそろ申し込めるかな?と、思って調べてみたところ、まだその船はスケジュールが出ておりませんでした。
ただ、イベント便というコンテンツがあったのでのぞいてみると、“水辺を学ぶシリーズ・河川整備の今昔「吾妻橋から岩淵水門」”というツアー参加の募集があったので、迷わず申し込んでみました。
下の写真の赤い橋が「吾妻橋」です。
吾妻橋 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤羽に出てから歩くと27分くらいかかるのですが、今回のこのクルーズは1時間少しで到着。先ほどの春から出航するクルーズは途中で止まる発着所がいくつかあるので、2時間くらいかけて遊覧します。
行きは隅田川周辺の地盤についての説明とその地形によってもたらした、川の氾濫と洪水被害について。その隅田川には『橋の博物館』とも言われるほど、様々な形状の橋がある。構造や歴史などの解説がありました。
そして、いよいよ…これは現岩淵水門(青水門)をくぐる動画です。
青水門をくぐって赤水門まで貴重な経験でした❗
水上バスから観る旧岩淵水門(赤水門)
この通称赤水門は1916年(大正5年)着工、1924年(大正13年)完成。
江戸時代から昭和初期まで荒川・隅田川は、台風や大雨による河川の氾濫にともなう水害が多発しました。旧岩淵水門は荒川放水路と旧河道(隅田川)との分派点に設けられ、隅田川に荒川の洪水が流入するのを制限していました。
岩淵水門 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和48年に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さの不足が生じたことから、全面改築されることとなり新しい岩淵水門(青水門)がつくられました。
現在、荒川だけでなく隅田川沿岸もスーパー堤防や河川の整備事業の推進や計画がされています。庶民を災害から守る意味もありますが、遊歩道(テラス)を整備することで憩いの場にもなります。
行ってみてしみじみ感じたのは、生きてきた時代は一緒でも暮らす場所は別々だった私とエレファントカシマシがこうして、1本の川を通じて繋がった感じがして少し嬉しく思いました。
また、暖かい頃に行ってみたいと思います。
あの小島に上陸してみたい(笑)今回は上陸して辺りを散策するということがなかったので、アンケートにそういった行程を加えてほしいと書いて出しましたよ。
エレファントカシマシが(株)アミューズに移籍
新しい季節へ…夢を追いにでかけるぜ!
弁当作り終わった後でよかった・・・昨日の夜でなくてよかった…嗚呼びっくりした。
なんだかなーーー!もう…いろんなドキドキが…ない混ざった朝だよぉ。次男送り出した!
会報が必ずしも解禁日に届いているとは限らないから、FCページでお知らせしてくれてもいいのにね。 こういう後手後手がこれからは少なくなっていくのかなー(笑)
昨日(2019/02/22)は朝に予想すらしていなかったニュースを目にして、心がザワドキキュー、ザワドキキューと忙しかった(笑)
昨日は次男の高校受験本命当日だったので、前日から早寝し朝から二人の息子のお弁当を作りでバタバタしていた。あらかた準備が終わって珈琲をすすりながら、PCを立ち上げTwitterをみると…冒頭の記事が!!
発送済みのFC会報「PAO」に詳細があるとのことだが、まだこの時点では手元に届いていない人も多く(私もその一人)、こんな大事なことをオフィシャルからのメールでもなく公式サイトからでもなく、スポーツ新聞の記事で知るとは!
まぁ、ガッカリ感の否めないTLが流れる流れる(笑)
私は自分の子供の事で気持ちがマックスだったし、エレカシサイドの後手後手についてはアルアルで少し反応が薄かった(笑)でも、冷静に考えたら確かに対処法はいくらでもあるから…上記のつぶやきに至ったわけです。
昨日は仕事もあったので、職場では単純作業を延々とこなし…気持ちを紛らせていた。気になることは次男の入試試験の事ばかりで、あまりエレカシの事は考えていなかった。次男のためにサーロインステーキ重を買って帰る帰り道…キレイな夕焼けでした。 日が延びましたねー☺️良いこと沢山あるような気がしてきた。
私もできることならやってみたい夢はあります。でも、現実的に先立つものがなければ叶わない夢です。もし目の前に自分の夢に近づける信頼性の高い場所が提供されれば、きっと迷わずそこに夢をゆだねるでしょう。
夢を実現させられる人はそんなに多いものではない。夢そのものも形を変えることもある。そんな中の朗報だったと思っています。但し最後の最後までなぁ~んか後手後手だったけど、笑って許します。きっとこれからは、そんなことも思い出しながら懐かしんで笑っていくようになるだろうから。
前事務所からのメッセージ…
エレカシのファンに返り咲いて10年の間ではありましたが…
FAITH MUSIC ENTERTAINMENT様、
これまでエレファントカシマシとファンの橋渡しをしてくださり、本当にありがとうございました。
そして、浅い私がお礼などおこがましいとは思いますが、エレファントカシマシを20数年間、支えプロモートしてくださりありがとうございました!
FAITHさんの中で育まれたエレファントカシマシ、ファンでしかない私もその中の一員になれたような錯覚をするほどです。そんな身近にも感じられるエージェントだったと思っているので、大きな事務所に移籍したことは、そもそも身近ではないエレファントカシマシが、更に遠い存在になっていく現実をつきつけられて寂しさはぬぐえません。
可愛い子には旅をさせよ。ってこういうときに使うのかな?(笑) 私達が知らないだけで、相当まだまだ伸び代もあって、需要もあってこのままじゃ対応してあげられなくなってきたのかもなー。 大きい事務所でのびのびやれたらそれでいいよ😊
こんな親心的な円満退所となったのだと思います。
FAITH MUSIC ENTERTAINMENT様、これからのご発展と所属アーティストさんのご活躍を心よりお祈り申しあげます。
涙ぐましいほどエレファントカシマシの宮本浩次のファンなんだ…
昨夜(2019年2月19日)は、今年2度目?のスーパームーンが観れる日。と、いうことで期待していたのですが、生憎の雨空でした。夜半過ぎには見えた地域もあったようですが、雑務に追われそのまま就寝してしまいました。
でも、今朝のウォーキングの時にスーパームーンをお見送りいたしましたよ(笑)
夜に観えたとしても高く昇ってきて、良く観えるころには小さくなっていたと思うのですが、戻っていく月は再び大きくひときわ輝きも強く…幻想的でした。
さて、直近に発売された音楽誌2冊を読み終えたので、感じたことを少しだけ記しておこうと思います。※発売されたばかりの雑誌なので内容の詳細は書きません。
今回の表題には記事で語った内容からつけてみた。
雑誌には宮本浩次が30年以上の年月日々を、“エレファントカシマシ”の宮本浩次として過ごしてきたということからの解放を堰を切ったように話していた。
それが、一人のミュージシャン宮本浩次としての第一歩。
JAPAN 2月号で「ソロの始まりについて語る」というインタビュー記事が出たけど、そこにはエレファントカシマシへの展望展開、宮本浩次の未来へのビジョンについては特に語られなかった。
発売前のブログに私はこう記していた。
yumcha-elekashi.hatenadiary.com
そして、読み終わった後の感想が…
yumcha-elekashi.hatenadiary.com
こんな感じでした。
宮本浩次が言っていた、四六時中エレファントカシマシの宮本浩次だった。私はその宮本浩次が四六時中好きだ。と、いうことです。きっと、他のエレファントカシマシのファンも寝ても覚めてもエレファントカシマシ、そしてエレファントカシマシ宮本浩次のファンだと、いう人が多いはずですよね。
今回の雑誌インタビューでは改めてソロに向けての気持ちや活動の一端を経験したメンバーの様子、自身のエレファントカシマシへの展望?などにも触れられていて、ずっと自分だけの憶測だった部分が少し明解になった気がします。
“MUSICA”を読み終えた直後のつぶやき…
MUSICA読み終わった。 ようやく、ソロ活動の先に新しい“エレファントカシマシ”への期待が込められている言葉が出ていて、スッとしたよ。
21:59 - 2019年2月16日
“CUT”を読み終えた直後のつぶやき…
CUT読み終わり!MUSICAと重なる部分もあるけど、よりいろんなことが宮本の口から明解に語られていて、自分の思っていた事と繋がって…そうだねぇ、安心したというか(別に不安ではなかったから)ちゃんと知ることができてよかった。「うん、だよね」っていう感じ。
8:55 - 2019年2月20日
ソロになってもう、エレファントカシマシの宮本浩次ではなくなる…という、わけでは全くないがソロはあくまでソロ活動。
エレファントカシマシではやらないできない曲で歌う事の挑戦。それがバンドに戻った時にどう反映するのかなんて、予測不能なのだ。
ただ、歩み始めたことがけしてマイナスに作用することはないそういう自信に満ちた、非常に前向きなインタビューだったと思う。ビジョンがはっきりしてくるまでにはまだまだ始まったばかり、ソロ宮本浩次の魅力が全開にもまだまだなっていないと私は思っている。
一人になってもついて来させてほしい(笑)
まぁ、勝手についていくか(笑)
それから、2誌読み終えて改めて感じたこと。
普段のしゃべり言葉というのは相手によって変わってくることはあるけど、基本的に宮本浩次の話し方、言葉はそこにはきちんとした礼節が備わっている。言葉使いや言葉選びというのは読書した分、言葉を仕事や生活の中で多く取り入れてきた分長けてくるかもしれないけど、育ちというものもにじみ出ている。
付き合う人との会話とか好きな人の言い回しとかからも影響をうけるから、私は善き人と関わるというのは自分にとってとてもプラスだな…そんなことをこの20年位で学んだ気がします。そして、これからも自らを律しながらコミュニケーションを取っていきたいと思う。
大げさだけど私はこうしてブログもやっているから…エレファントカシマシや宮本浩次、他にもキレイな言葉を教えてくれたアーティストのファンとして、恥ずかしくない話し方、言葉遣いは心がけたいと思った(雑誌なのに辞書引き引き読んだからw)。
【東京の空③】日本武道館
ブログをあげるのに久しぶりに「東京の空」のこの章を読んだ。
初めての武道館公演は1991年1月の新春「日本武道館3000席ライブ」です。私は同年3月に出産予定の長男を身ごもってました(笑)エレファントカシマシの“エ”の字もない頃です。
当時は「日本武道館」というものに思い入れもなかったと語られていて、適当な会場が取れず、当時のマネージャー綾部和夫氏からの武道館で3000席使ってやろう!と、いう斬新な提案で行われたという。
とがりまくっていた時代のエレカシでしたから、「武道館?だからどうした!」みたいな感じだったようです(笑)インタビューでは抑え気味で回想していますが、当時は割と荒れていたとは思いますけど。
その後、「今宵の月のように」がヒットしたことをきっかけに、再び武道館公演そしていきなり2days!動員が一気に増え満席にすることはできた。だけど、それが逆に「この状態を維持して行けるのか?」と、いう恐怖にも変わったとの事。その後、数年間は武道館公演を2daysでやったけれども次第に動員数が減ってきて、2001年の新春を最後に2009年の4月まで行われなかった。
今年の武道館新春LIVEの日記にも記したけど、やはり宮本浩次にとって日本武道館とは憧れの場所というものではなく、伏魔殿のようなイメージだったのかもしれません。
さて、私にとってのエレファントカシマシ日本武道館LIVEはその2009年4月から始まった。宮本浩次にとっても再びあの頃の緊張がよぎる瞬間だったのかもしれない。
武道館で再び新春LIVEが行われたのは2011年。
2012年は震災の影響で取れなかったのかな?2013年は活動休止中。2014年はさいたまスーパーアリーナ。2016年は東京国際フォーラムと大阪フェスティバルホール各2days、2018年はNHKホール、大阪フェスティバルホール。
2011年以降の新春も武道館でやっていない年もありますが、それには売れなくなったからという要素はまったくない。意味があっての会場選びだったということがわかる。
宮本浩次にとって日本武道館は自分のアーティストとしての力量を計る、そんな場所でもあるが、30周年ツアーを機に「もう大丈夫」という自信もついたから、逆に武道館という伏魔殿を恐れることはもう無くなっただろうと想像します。
そして、これからも「新春は武道館」という形をとるかとらないかも、もはやそういう縛りからも解き放たれたかもしれない。
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